自分が与えられる価値は何なのか。(永遠の課題)
高校生1年生の現代文の授業で、恩師の先生がおもしろい授業をしたことがありました。
「明日までに、何でもいいので、一文、考えて来てください」
翌日の授業で、それぞれが考えた一文を先生が回収しました。そして、その後の授業の初めに、一枚のプリントが配られたのです。
そのプリントには、クラスの生徒38人と恩師の先生がそれぞれ考えた一文が詩のように配置されていました。
とてもおもしろい詩だったのですが、もちろん、残っておらず、また、友人たちがどんなことを書いたのかも忘れてしまいました。
しかしながら、自分が書いた一文と、最後に先生が書いた一文は覚えています。
僕は、
「世界に必要?」
という一文を書きました。厨ニっぽいすね。
恩師は、
「最近、日に焼けた」
という一文でした。この一文が最後にあることでオチとなり、全体を散文詩として成立させようとしたのだと思います。
高校1年生だった時から、もうかれこれ20年以上経ちますが、その時の「世界に必要?」は言葉を変えて、まるで永遠の課題のように、僕につきまとっています。
価値って何?
自分が与えられる価値とは何なのか?僕は今、地方公務員として、小さな町役場で働いていますが、少なからず、町で暮らす人の役には立っていると感じています。
でも、それは、不安や心配を取り除くという、−10を−3にするようなことで、しかも、それは僕が与える価値ではなく、国や県や町が与える価値を代行して行っているだけです。
正直、僕はこの仕事をしながら、家族4人と幸せに暮らすことができていますので、これ以上望むことは贅沢だと思います。けれども僕は、僕に与えられた永遠の課題をクリアしなければ、といつも感じているのです。
大人気のPodcastコテンラジオでパーソナリティの深井さんが「生きてるだけでいい」という名言を残しています。人は生きているだけで、価値があると。
この言葉に救われる一方で、僕は、僕の永遠の課題をクリアすることを諦められないな、と思いました。全ては、高校1年生の時の「世界に必要?」から始まっています。
価値は、人それぞれ
ある事柄を価値があると判断するのは、千差万別というか、人それぞれです。価値の権化であるお金さえも価値がないと、人里離れた山奥で暮らす人もいます。
さらに、お金は価値として最も分かりやすいものなので、お金という価値をより多く所有することを目的に生きている人も沢山います。
僕にとっての価値とは「人生を豊かにしてくれる何か」です。これをさらに分解すると「死ぬ時に幸福感を感じるための因子」です。
僕は他人に対して、この因子の一部を与えたいと思っています。
ただ、それが何なのか、ずっと分かりません。家族や身の回りの人にとっては、明確にあるいはなんとなく分かっているのですが。
いつも読んで頂いてありがとうございます。何か見つけたいと思っています。