2019.12.15「無題、とりあえずの走り書き」

今回の依頼を通して、自分の目的(やりがいの置きどころ)は、と考えてみる。それと同時に、依頼そのものの背景(目的ほどはっきりしたものではなくても、潜在的な欲望)にどこまで応えるべき(決して個人として応えられるサイズのものではない!)かも考えている。

[自分の目的]

・下記にも通ずるが、レッツとの出会いでもあった、滞在企画「無職・イン・レジデンス」(、「すごす」)という自身の取り組みにも多く似た部分を感じるため、参加者目線で考え直すことができる。

・「障害者アート支援」を遠からずしてきた身として、「(ただただ)(ともに)すごす」というようなわかりやすく「成果主義」的ではない取り組みのありようを身を以って知れる。ただただともにすごす(なんにもしない)ことはなかなかできないとしても、いることそのものが既に価値があるという本来的なことを問い直し、未来を想う。反面、現在だってどんな取り組みも、いなきゃ始まらないのだろう。

・「福祉(制度を活用した芸術・文化)施設」をつくるにあたって先駆者であるレッツに長く居、単発的な見学とは違う見方ができ学べる。それは制度であったり、関わりようであったり。

[依頼が起こる背景を想像する(この取り組みが訴えかけた先に)]

・なぜ(重度の)障害がある人が、一般的な暮らしの選択肢が持ちにくいのか。(一般的な暮らしが最適であるかはまた別とする)福祉予算を削るという発想の不可解さや個別対応の出来にくさ?または、制度の理解度によって使える使えないということが起きる?声を上げることはものすごい気力が要る。違和感を言葉にできるかどうかという瀬戸際。

・障害がなくとも、最終的なケアを(間違っていたらすみません、成年後見人制度があれど)家族に求める制度設計になっているのはなぜか。(これによって僕は貧した際、声なき声になりかけた。その経験があるから今の活動にも繋がるし、今もそうとも言えるが。詳しくはまたの機会に書けたなら)

・上記の通り、障害がある子を抱える親や家族の中に障害を持つ人がいる場合には、(上記の最終的な)ケアが日常的なものとなっているのはなぜか。家族と個人。子育てとはどこまでを指すのか。

・(誰しもが)他者の幸せを決められる権利があるのか。そして、幸せを決めるということは、用意されたものの中から選び取るということなのか。

2019.12.15 タカハシ 'タカカーン' セイジ、豚肉と白菜のミルフィーユ鍋を作りながら、引き続き、今は麦焼酎をロックで。少しずつ加筆修正、卵かけご飯を食べた後に。