同居人

長らく家を空けていると、同居人ではなくなるのかな。確かに家のことは何も関与していない。家のことに関与するってのは、家事をすることか。それだけでない気もする。というより、一緒に住んでる感、だな。たとえば同棲してるなら、時間をあわせあって夕飯を一緒に食べる、生活必需品を余裕のあるときに買っておく。物理的なことに伴う精神的な安心感が最も大きいのかもしれない。同じ空間にいるという安心感。互いのモードが違うと、ある時こうしてほしいと思って求めたことが、この時にはただただ鬱陶しいものに転じたり。他者をどう捉えるかはそれぞれで。そこがたまたまうまく合うと同居を続けられる。のか。話せばわかるものなのか。気をつかう限度、我慢の限度未満で他者に合わせていく、ということが同居の基本なのか。好き好きに暮らして、それで全く不具合がない状態をつくるのは不可能か。こだわり、大切にしていることを踏みにじるようなことはしたくないけれど、文化同士の共存というと大袈裟かもしれないが、そういうことが同じ空間で比較的長い時間すごすとなると、微かな違いが気になってきたりするのだろう。ぼくはあまりこだわりがないほうで、ないからこそ他者に合わせがちで、だけど、他者の考えをマックスには読み解けないから、他者からするとその完全なコントロールが不可能な他者の微妙な出来なさに目が向いてしまうのだろう。何が言いたかったんだろう。その微かな差異を感じられる場が他者同士が暮らすシェアハウスの醍醐味とも捉えられる。

追記
だけど、ぼくは他者に合わせている、と書いたけれど、そんなことはないな。極力なにもしてないと思う。汚したら掃除する程度で、好きなだけ寝て、コーヒー飲んだりベランダにちょくちょく出てタバコを吸い、本読んだりおしゃべりしたり、ネットサーフィンして洗濯して風呂に入るくらいしかしてない。たまに散歩に出たり、飲み歩いたり、めちゃくちゃ気が向けば食材を近くで仕入れて自炊する。自炊が続くこともあった。たとえば、たけしくんに対しては、喉乾いてそうと感じたときにコップに水を汲み飲んでもらう、くらいのコミュニケーションで。飛び散った石を拾い届けたり。たけしくんがふだん見たことのないことをしたかなって感じたときに周りにいるヘルパーさんや同居する航也くんに話しかけてみたり意見交換したり、笑わされたり。挨拶をする。久しぶりに帰ってきたり、ほぼないけど、ぼくが先に起きていたときに「おはよう」と。笑顔のたけしくんを見るとこちらもうれしくなる。