【小説】光の三分間と声と言葉の青春⑧「音楽が聞こえる」
蒸し暑さが本格化してくる六月の上旬。梅雨入りで毎日雨天続きの中、今日は珍しく晴れていた。
ディベート甲子園運営本部から正式な論題が発表されて一週間が経ち、ディベート部の活動は少しずつ地区大会に向けて動き出していた。
それでも大会まではまだ時間があるということで、あまり緊張感は無かった。部員のみんなは和気あいあいと情報処理室のパソコンで論題に使う資料探しをしていた。
僕は放課後、檜山先生に呼び出され、空き教室へと向かっていた。どうせまた成績関連でどやされるんだろうな。一階の中庭で缶のマスカットジュースを買って階段を上がる足取りが重い。
窓から西日が差している。僕は空き教室へ向かう階段で足を止めた。屋上から音楽が聞こえたからだ。誰かがギターを弾いているのか、一定のリズムで同じフレーズを何度も何度も繰り返している。それも、どこかで聞いたことがあるような、そんな一節だった。
屋上に鍵がかかっているのにいったい誰だろう。手すりから少し顔を出して確認すると屋上の前の踊り場に誰かが座っている。そこには、茶髪をキノコカットにした男子生徒がギターを弾いていた。
彼は、こちらに気づくと一瞬だけぎょっとしてギターを隠そうとした後、安心した顔に戻って破顔した。
「このギター、チェリーサンバーストっていうんだ。“けいおん!” って深夜アニメ知ってる? 主人公の平沢唯が弾いているギターがこのギターなんだよ。しかも、唯ちゃんはアニメでギー太って名前を付けるんだよ。可愛いよね。だから俺も唯に倣って自分のギターにギー子って名前を付けた。あ、ちなみに、金沢の中古ショップで十万した」
僕が恐々と踊り場まで登ると、男子生徒は聞いてもいないのに得意げに解説しだした。先ほど弾いていた曲はどうやら“けいおん!”のオープニングテーマだった。
「キミは、俺の音色に惹かれてやってきたのかな?」
当たらずとも遠からずだが、ここで素直に答えるのも癪しゃくだった。
「僕は二組の鷹岡。いや、偶然。屋上から変な曲がリピートしてるから、ついに壊れかけのラジオが壊れたのかと思って」
我ながら意味の分からない言い回しだ。しかし、ここでキャラの強い彼に負けてはいけない。先の口上はいわゆる威嚇である。
「ああ! キミが鷹岡くんだね! 噂には聞いているよ。アキって呼んでいいかな。ボクは一組のリョウヘイ。よろしく!」
しかし僕の威嚇も意に介さず、リョウヘイは人好きのする声で言った。どうやら、彼は陽キャらしく、一気に僕の座る真横にゼロ距離で間合いを詰めてきた。それにしても僕のことをどこで知ったのだろう。僕が問いただそうとすると――。
「ちょっと静かに」
リョウヘイが人差し指を口に当てる。耳を澄ませると、誰かが階段を上る足音が聞こえる。すると、彼は先ほどまでの自己陶酔じことうすいなど晴れ、いきなり慌てだした。
「ヤバい、隠れよう。ここでギター弾いていたのが先生に見つかったらどやされる」
どうやらリョウヘイは生徒指導の常習犯みたいだ。慌ててギターを抱え、右往左往し始める。しかし、彼の巨体を隠せる場所なんてどこにもなく、踊り場の隅にでかいクマがギターを抱えて丸くなっていた。
「ああ、二人ともここにいたがけ。うん、まあ、ここでもいいかな」
階段下から姿を見せたのは檜山先生だった。どうやら空き教室に呼ばれたのはリョウエイもだったらしい。リョウヘイは先生を認めると、大事そうにギターを抱えたまま警戒を解いた。
「いや、成績のことじゃないからそんなに怯えなんでもいいちゃ。実は二人に頼みたいことがあっての」
「何です?」
リョウヘイが不安そうに聞く。
「詩のボクシングに出てみんけ?」
「死のボクシング?」
僕とリョウヘイは顔を見合わせる。
「なーん、違う! ポエムの方の詩! 二人でそれぞれ詩を発表しあって、審査員にどちらが心を打ったか選んでもらう競技!」
僕の頭の中に先生の言った詩のボクシングをしている二人の少女が浮かんだ。左手に花があしらわれたノートを持ちながら、もう一方の手で相手を殴っている。そして、勝った方は右手をレフェリーに高くあげられながら、劇画調の顔で我が生涯に一片の悔い無しという顔をしている。負けた方はリングの隅で真っ白になって灰になり、力尽きていた。
「その顔は分かっとらん顔やな」
檜山先生は呆れながら、タブレットを取り出して僕たちの前に出した。
「まあ、実際に見てもらったほうが早いかな」
「YouTube?」
僕たちはタブレットをのぞき込む。そこに映っている動画に、僕は愕然とした。
「谷川俊太郎と、ねじめ正一⁉」
「知ってるの?」
「知ってるよ。国語の教科書に載ってるじゃん」
「ふーん」
液晶の向こう側には、二人が十ラウンドに渡って詩のボクシングを繰り広げているさまが映し出されていた。そして、彼らは言葉でお互いを殴り合い、ディスりあっていた。
そこには、教科書には書いていない、生の詩人たちの魂の叫びがあった
◇
「何かせっかく詩のボクシングだから、ラウンド一とかっていうのもつまらないから、僕がラウンドに名前を付けました。
はじめはおなじみ、オナラ・ウンチラウンドです。
オナラ唄。
イモ食って、ぶ! ――」
「戦いだ!
ある中央沿線本屋の戦い。
このところ、万引きが増えてきました――」
「谷川俊太郎に捧げる。
おじいちゃんだからといって、ヨボヨボ歩く、谷川さんちのおじいちゃん。
ヨボヨボ歩くのをやめて、よちよち歩いている。おじいちゃんだからといって、ヨボヨボに甘えていないところがいいね。
ボケているのに、ボケていないふりをする谷川さんちのおじいちゃん。
詩で、遺言書を書いている。おじいちゃんだからといって、ボケに甘えていないのはいいね――」
「やっぱり、受けて立たなければいけないでしょうね――。
ねじめのけじめ。ねじめじめじめはしためいじめ。
ねじめぬめぬめ割れ目を見つめ。
ねじめしめしめ生娘手籠め――」
◇
「何だこれ⁉」
僕とリョウヘイは顔を見合わせる。二人とも興奮で顔を上気させている。
「面白いやろ? 鷹岡もリョウヘイも、歌とか詩に興味あるっぽいから、気にいるかなと思って」
ボクシングリングに僕が立っている姿を想像した。僕はヤスダたちに教わったラップを打ち、ジャバラバを片手に、裏に書いた詩を詠んでいる自分を思い出した。しかし、対戦相手の谷川俊太郎には一ラウンド経たずにKO負けしていた。
「これに出るんですか?」
思わず大きな声が出た。
「まあ、ゆくゆくやちゃ。まずは目の前の地区大会に出んなん」
檜山先生が頭を掻く。
「まあ、面白そうですけど……。でも、いきなり大会はキツイっすよ。初心者なのに」
リョウヘイは不安そうな顔で先生に抗議している。
「分かった。じゃあ二人の発表場所を用意する。それでどうけ?」
先生が僕たちの顔を見る。先生が練習試合を設けてくれるということで、それならば、と僕たちは了承した。
「よし、決まりやな!」
僕とリョウヘイは檜山先生と固く握手をした。
「で、練習試合はいつですか?」
リョウヘイが手を挙げる。
「二週間後の勉強合宿に特進コースみんなの前でしてもらおうかな、詩のボクシング。あと練習試合じゃなくて演習な。みんなの手本になるんやから」
「え?」
僕は絶句した。特進コースは一組二組合わせて五十人だ。最初っから五十人の前で発表するなんて、考えただけで意識が飛びそうだ。
「じゃ、二人の承諾も得たし、二週間後の夏合宿に特進コースみんなの前で詩のボクシングの演習をしてもらうから」
「は?」
「二人とも、発表用の詩を考えておいてくれ! じゃ、よろしく!」
檜山先生はそれだけ言うと、何事もなかったかのように階段を下りて行った。
残された僕とリョウヘイは、そのまましばらく動かなかった。
「これからどうする?」
僕は背中を夕陽に照らされながらそう言った。リョウヘイの腹が鳴る。
「とりあえず、ラーメンでも食いに行くべ」
リョウヘイが手招きする。僕たちは高校近くのラーメン屋に向かった。