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郷家友太が忘れもしない『あの日』。宮城県多賀城市で経験した『理解不能の世界』から見出した日常とプロ選手として生きる意味。
2020年3月11日。東日本大震災から9年が経ったこの日、筆者はSNSを見ていると、ある1人のJリーガーのツイートを見て、思わず手が止まった。
「3.11。
自分の家から見る大きな黒煙。
1人3品までと決まっている商品を求めて、家族全員で毎日3時間並んだ日々。
お世話になっていた親友のお母さんを亡くしたときの気持ち。
電気が使えず、ろうそくで僅かに見える祖母の悲しそうな顔。
坂を下ると海になってた。理解不能。
どれだけ今が幸せか。」
これはヴィッセル神戸に所属をするMF郷家友太のツイートだった。
3.11。
— 郷家友太/Yuta Goke (@GOKE_YUTA) March 11, 2020
自分の家から見える大きな黒煙。
1人3品までと決まっている商品を求めて、家族全員で毎日3時間並んだ日々。
お世話になっていた親友のお母さんを亡くしたときの気持ち。
電気が使えず、ろうそくで僅かに見える祖母の悲しそうな顔。
坂を下ると海になってた。理解不能。
どれだけ今が幸せか。
これを見て、筆者は彼が一年前の3.11を迎えた後に語ってくれた想いが、声となって頭の中で響いた。
そして、当時の音声データをすぐに聞き直し、彼が見た世界、感じたリアルな想いを今だからこそ伝えたいと思い、このコラムを書くことを決めた。
まずは改めてこの想いを語ってくれた郷家選手に心から感謝をしたい。ここからは友太少年の目線で物語を進めていきたい。
2011年3月11日。宮城県多賀城市に住む友太は、いつもと変わらぬ日常を迎えていた。
「行ってきます」。
多賀城市立天真小学校に通う5年生だった彼は、ランドセルを背負い、自宅のある高台から学校のあるもう1つの高台に向かって元気に登校した。そして給食を終え、迎えた5時間目は英語の授業だった。
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この日は机を全て後ろに下げて、外国人の先生と担任の先生が前に立つ中、クラスメイトみんなで英語のゲームをして楽しんでいた。
しかし、先生と仲間の笑い声で溢れる教室が、突然別の世界に変わった。
「ゴゴゴゴゴゴゴッ!」
物凄い音が響いた後、4階の教室は激しい横揺れに見舞われた。
「あ、地震だ!」。
友太はすぐに気づいたが、「すぐに終わるだろう」と思っていた。
しかし、揺れはなかなか収まらない。それどころかだんだん下から上に突き上げるような激しい揺れに切り替わり、もう立っていることすら出来なくなった。
教室は一瞬でパニックになった。泣き叫ぶクラスメイトの声。男子も女子も我を忘れたように泣き叫んでいた。机を後ろに全て下げてしまっていたため、机の下に避難することもできない。友太たちは揺れが収まるまで必死でその場に四つん這いになって震えていた。
「いつまで続くんだよ!」。
長かった。とにかく長かった。
友太も泣き叫びたかったが、あまりにも周りがパニックになっているために「僕が泣いたら絶対にダメだ」と必死で涙をこらえていた。
揺れが収まると、先生たちが激しく廊下を走って、「みんな落ち着いて!」と叫んでいた。揺れが収まっても泣き止まないクラスメイトもたくさんいた。
「なにが起こったんだ…」。
状況が把握できなかった。でも先生たちも明らかにいつもの様子ではなかった。
「親が迎えに来るので、教室に待機していてください」。
友太たちはそれに従うしかなかった。そして、しばらくすると親たちが1人、また1人と子供たちを迎えにきた。地震発生から1時間して友太の父親も迎えにきてくれた。まだ親が迎えに来ないクラスメイトの姿に複雑な想いを抱きながら、友太は家に帰った。
家に帰ると、リビングや部屋の中はぐちゃぐちゃだった。幸い、家自体にダメージはなかったが、食器棚からほとんどの皿が床に落ち、タンスなどの家具も倒れ、停電もしていた。このとき、母親が悲しそうな表情で割れた皿をビニール袋に入れる姿に衝撃を受けた。
そして、家の窓からはこれまで見たことないような大きな黒煙が上空に上がっているのが見えた。仙台港の近くにある大きな工場からでているのはすぐにわかった。焦げ臭い匂いが家の中にまで入ってくる。
絶対に何かがおかしい。
夜になると辺りは真っ暗で、気温もぐっと下がった。停電により暖房器具が使えず、机の上にロウソクを4本立てて、僅かな灯りと暖をとった。
ロウソクを中心に家族全員と友太の家に避難してきた親族たちと身を寄せた。その時、僅かな灯りの先に見える祖母の悲しそうな顔が頭から離れなかった。
この日の夜、多賀城市はこの時期では珍しい雪が降った。いつもは何とも思わないが、ひらひらと舞い落ちる雪に友太はなぜか心が締め付けられる想いがした。
翌朝、父親と妹の3人で自転車に乗って学校に行こうとした。しかし、家から坂を下っていると、いきなり規制線が張られ、そこに消防の人が立っていた。
「すみません、ここから先は行けません」。
意味が分からなかった。次の瞬間、友太の目に衝撃的な光景が飛び込んできた。
「…あれ?何でオレンジのボートがいくつもあるんだ!?」。
ボートが行き来するような場所ではない。よく目をこらすと、そこは一面の水が広がっていた。
「え?み、水???」
停電のためラジオやテレビも見れず、何が起こっているのか理解できていなかっただけに、その光景は衝撃的だった。まるで別世界に来たような、夢を見ているかのような感覚に陥った。
そして、小学校5年生の友太でもすぐに察した。
「…これは犠牲になった人は少なくないはずだ…」。
信じられなかった。信じたくなかった。
ここで生まれ育ち、平和で穏やかな街並みが当たり前だと思っていた。しかし、それは当たり前ではなかった。
時が経つごとに自分が経験していることの異常さに気づいていく。断水のため家族と近くの公園まで水を汲みに行った。
学校は当然行ける状態ではない。当時、ベガルタ仙台ジュニアでプレーしていた友太は当たり前のように通っていた泉中央の練習グラウンドにも行けなくなった。それどころかサッカーができるような状態ではなかった。
友達の安否も詳しく分からない。親と親族、近所の大人たちに聞くことしかできなかった。停電もずっと続いている。日中は家の片付けを手伝い、食料の買い出しのために両親とスーパーに出かけた。そこでも衝撃的な光景を目にした。
どのスーパーにも長蛇の列ができていた。マックスバリューというスーパーに行っていたが、普段は当たり前のように車を止めていた駐車場が使えないくらい、店内から並ぶ列の人で溢れかえっていた。
販売制限がかかっており、買えるのはジャンル関係なしの1人3品まで。それでも食料などの物資を求め、多くの人が詰めかけるというより、押し寄せていた。
より衝撃だったのが列に並ぶ人の表情がみんな暗かったことだった。これほど人数がいるのに、誰も笑顔ではなく、下を向いている人が多かった。列の順番を飛ばした、飛ばさないで大人たちが怒号を挙げる姿も目の当たりにした。
とにかくみんな余裕がなかった。
怒りを誰にぶつけていいか分からないようにも感じた。殺伐とした雰囲気。小5の友太はそれを下から見上げていたからこそ、その切迫感は足がすくむほど強烈な恐怖だった。
カップラーメン、水、そして子供たちのためのお菓子。3時間をかけてこの3つを購入する日々はしばらく続いた。
正直、スーパーに行くことすらも嫌だった。でも、生きるためには嫌でも、怖くてもあの雰囲気の中で3時間並ばないといけない。小さな体にストレスがかかって行く。
「学校で習った戦時中の日本のようだ」。
食料を求めて並んでいる姿、工場からの黒煙からの焦げ臭い匂いが街全体を包む…。異様な中でもやっぱり思うことがあった。
「サッカーがしたい」。
でもそれと同時に「いや、サッカーなんてやっている場合じゃない」という気持ちも湧き起こった。
水が引いた後に高台の下の街に行くと、家が倒壊していたり、それを隠すようにブルーシートが掛けられていたり、壁や窓には津波によって浸水した水位が分かるような跡が残されていた。
足元を見ても泥だらけの場所が多く、海水の匂いが残り、道路の端や敷地の中には死んでいる海の魚がいた。
「ああ、ここは一瞬でも海になってしまっていたんだ…」。
何もかもが常識では考えられない、異質な世界。もう一体何度受けたであろう衝撃をまた受けた。
それに友太にとってさらに忘れられない衝撃的な光景があった。それは通っている天真小学校に置いている私物を取りに行った時だった。
いつも見慣れているはずの学校の正門から一歩足を踏み入れると、そこは異様な雰囲気に包まれていた。中庭に仮設トイレができていて、そこに行列ができていた。その奥にある体育館を覗いたら、そこにはビニールシートを敷いて座っている人たちがたくさんいた。
とても自分の学校とは思えなかった。
学校は地震と津波によって避難してきた人たちが生活をする避難所になっていた。友太はその光景を見たが、だんだん家も無事で家で生活できている自分自身に申し訳ない気持ちと、うまく表現できない気持ちが沸き起こってきた。
涙が出てきた。もうこれ以上この光景を凝視することはできなかった。すぐに教室に行って自分の私物を取ると、一目散に家に帰った。
「僕以上にこんなに普段の日常が奪われて苦しんでいる人がいるんだ。僕なんてまだいい方じゃないか。僕は停電でも普段と同じ環境だから我慢できる。でも体育館に避難している人たちは家族で固まって寒さを凌いでいる人たちもいた…。僕はまだ恵まれている」。
そう思えば思うほど、大好きなサッカーをしていいか分からなくなった。それでもどうしても我慢できなくて、従兄弟と家の前でボールを蹴りあったり、家の壁に向かっていつものようにボールを蹴ったが、ふと「大丈夫かな?こんな状況でボールなんか蹴っていいのかな」と周りの目を気にすることが多かった。
ボールを蹴っているときは本当に楽しい。でもその楽しい気持ちを邪魔するかのようにもう1人の自分が制止を掛けていた。
さらに余震も断続的に起こり、余震が起こると身体が硬直した。どうしてもあの日の教室での光景がフラッシュバックしてしまう。ボールを蹴っているときに余震が起こると、一瞬で現実に引き戻される。
こうした生活が1ヶ月半続いた-。
工場から出ていた黒煙も20日ほどで収まり、電気も復旧し、瓦礫などの片付けもひと段落した地域もあり、ようやく少しずつではあるが落ち着きを取り戻していった。
そしてベガルタ仙台ジュニアの練習も再開することが決まった。
母親の車で泉パークタウンサッカー場に向かうとき、久しぶりにみんなとサッカーができるワクワクした気持ちとそれと相反するように複雑な気持ちが友太の心に入り混じっていた。
「みんな無事だったのかな…」。
友太の元にすでに悲しいニュースが届いていた。それは一番の親友と言える千葉至温のお母さんが仕事先で津波によって亡くなったのだった。
至温の家にはよく遊びに行っており、至温のお母さんにもお世話になっていただけに、最初にそのニュースを聞いたときはショックで号泣をした。
「どんな顔で至温に会えばいいんだろう…」。
泉パークタウンサッカー場に着くと、みんながいた。至温もいた。チームメイトはみんな無事だった。少しだけホッとしながら、みんなと1ヶ月半ぶりのサッカーに打ち込んだ。
本当に楽しかった。サッカーに飢えていた自分がいた。みんなもそうだった。
でも、時折ふと至温の顔を見ると、みんなが満面の笑顔の中、一人だけどこか寂しげな表情をしていた。それを見た瞬間、友太は胸が締め付けられる思いになった。
「至温、一緒にボールを蹴ろう」。
友太はその日からより至温といる時間が増えた。彼には兄と弟がいて、3人でサッカー以外の時は部屋にこもっていることを聞いていた。だからこそ、よりサッカーの時だけは一緒に笑顔でプレーしてもらいたいと思った。
(↑ベガルタ仙台ジュニアで海外遠征に行った時の写真。右が千葉至温。いつも一緒にいた至温はベガルタジュニアユースから福島県の尚志高校に進学。東洋大を経て、現在はメルボルンを拠点とするVIC州リーグ1部のウィトルシーユナイテッドでプレー)
同時に自分たちがサッカーができている環境がどれだけ幸せであることを痛感する出来事があった。それは仙台空港を利用して遠征に行った時だった。父親の車で仙台空港に向かっていると、海岸線沿いの1本道で見た光景はこれも『別世界』だった。
震災前は住宅街で賑わっている印象だったのが、それがまるで嘘のように家屋も無くなっていて、更地のような状態だった。津波で家が流されているのに海岸線沿いに植えられていた松の並木はそのまま残っていた。逆にその光景が恐ろしかった。
「僕は遠征に行っていていいのかな」。
そう疑問に感じるほど、衝撃的な光景だった。
そして、1年が過ぎた。
小6になった友太はベガルタ仙台ジュニアのキャプテンになった。キャプテンマークとスパイクには「がんばろう東北、がんばろう東日本」と入れていた。全日本少年サッカー大会の宮城県予選の決勝でハットトリックした時、友太はキャプテンマークをとって、天に突き上げた。
震災から8年
— Shion Chiba (@sh___n13) March 11, 2019
サッカーができる環境に本当に感謝します
今も尚、被災地の復興は先です。
今生きていることに感謝し亡くなられた方の分後悔のない人生を送ります
母も自分たち兄弟のことを天国から見守ってくれています
常に全力で😊
母からのことを大切にがんばります#東日本大地震 #8年目 pic.twitter.com/QqbQvtlCY8
「僕の地域は復旧が進んでいたけど、テレビで船が建物の上にある映像を見たり、石巻や気仙沼などの三陸の方はまだまだ復旧には時間がかかるような状態でした。福島ではもっと混乱が続いているのはテレビを見てもわかるし、同じ宮城県、東北に住んでいるのにこんなに違うんだと。元の生活に戻るのにどれだけかかるんだろうと思っていた」。
自分がサッカーをできるのは決して当たり前ではない。まだサッカーどころではない人たちはたくさんいる。自分も辛い思いは味わったが、今こうしてサッカーに打ち込める自分は幸せであり、それを当然と思ってはいけない。
いつしか友太の心にはサッカーに対して、日常に対してそう思うようになった。
「サッカーはやっぱり僕の中では人生において無くてはならないもの。震災を経験して、その後もいろんな衝撃的な光景を目の当たりにして、よりサッカーができる幸せを理解できるようになりました。
本当にこれは何度も言っていますが、当たり前だと思っていることは実は当たり前ではない。これはずっと僕の心の中にあります。それに僕が今、こうしてプロサッカー選手をやっていることは、こうした幸せの上に成り立っているんです。
そして僕がベガルタの選手に励まされたのと同じように、僕も子供達に、当たり前のことが当たり前ではないことに直面している子供達に勇気を与えられる存在にもなりたいんです」。
小5の友太にとってベガルタの選手たちの存在は憧れだった。忘れもしない2011年4月23日。等々力陸上競技場で行われたJ1第7節・川崎フロンターレVSベガルタ仙台の一戦、震災から約1ヶ月半後のこの一戦を友太は自宅のテレビで見ていた。
「これまでもベガルタの試合は見ていたけど、この試合は何か違った。画面に映る選手たちが僕たち宮城県民を代表して戦ってくれるように感じたんです。震災で傷ついた人たちの代表として、全力で戦う。心の底から応援していたし、選手たちのプレー1つ1つがまるで僕らに『頑張ろうぜ!』とエールを送ってくれているような気がしたんです」。
試合展開も劇的だった。0−1で迎えた73分にFW赤嶺真吾がこぼれ球を拾って、ゴール前に横パスを送り込むとMF太田吉彰がスライディングシュート。これがブロックに来たDFに当たってバウンドが変わり、バランスを崩したGKを超えてゴールに吸い込まれた。
友太がサッカーの試合を見て泣いたのはこれが初めてだった。そして87分にはMF梁勇基の右FKをDF鎌田次郎がヘッドで合わせ、2−1の逆転。もう涙が止まらなかった。
「もう圧倒されたというか、『宮城のために、被災者のために何が何でも勝つ』という選手や手倉森誠監督の気迫が画面から伝わってきたんです。太田選手が奇跡のようなシュートを決めて、鎌田選手の気迫のヘッド。ベンチでは手倉森監督が涙を流していて、本当に心が突き動かされたというか、前に進む勇気を与えてくれた。もう感動という言葉を通り越していたんです」。
自分もこうなりたい。いつしかこの時のベガルタの選手たちの姿が理想像になっていた。
中学の途中でより独立した自分になるためにベガルタを離れ、青森山田中に転任し、そのまま高校に進学。
卒業後はヴィッセル神戸に進み、宮城を離れているが、やはり彼の中でのサッカー選手としての原点は当たり前の日常を奪った震災と、プロサッカー選手の力を感じたあの試合だった。
「高3のインターハイが宮城で開催された時は、あの時のベガルタの選手たちのように『地元のお世話になった人たちの前で気持ちのこもったプレーをしたい』と本当に全てを捧げる気持ちでピッチに立ちました。ヴィッセルに進んでからもベガルタは特別な存在ですし、ヴィッセルで頑張ることで宮城県の人たちに少しでも喜んでもらえたら、子供達に少しでも勇気を与えられたらと思っています」。
3月11日を迎えるとその気持ちが鮮明に頭に浮かぶという。昨年の3月11日も彼の中で自分の人生を見つめ直す機会となった。
「やっぱりあの小5の時に見た光景は一生忘れないし、考え方もあの時から変わっていません。それに今、僕がヴィッセルにいることもある意味運命なのかなと。ヴィッセルのホームタウンである兵庫も僕が生まれる前の1995年に阪神・淡路大震災があった。
ヴィッセルも震災後に街の復興の象徴の1つとなったクラブ。当たり前の世界から一瞬で信じられないような世界に変わって、多くの犠牲者の方も出てしまった。そこから復興し、いつまでも震災を忘れないで日常を大切に生きている場所で、プロサッカー選手としてプレーできている。それは本当に運命だし、僕の責任でもあると思っています」。
仙台空港から実家に向かう海沿いの道路は今も暗い。その光景を見て「復興しているようでまだしていないといつも感じる」という。
郷家友太は今、この世の中の状況を見て何を思うのか。もちろん震災と今、日本を含め世界中で直面している問題とは一緒にできない部分はある。
だが、彼の言葉を借りれば、こういう時こそ、当たり前だと思っていることを見つめ直し、些細な幸せを見つけて大切に心に刻まないといけない。決して悲観するのではなく、希望を見出して前を向いて歩いて行かないといけない。
あの日から9年目の3.11を迎えて、1人のフットボーラーが紡いだ言葉の意味を噛み締めて、筆者も前を向きたい-。
※最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。このコラムを伝えるにあたって、有料にすべきか、無料にすべきか本当に迷いました。多くの方に読んでいただきたい一方で、プロフェッショナルとして強い思いと労力をかけたこの大切な作品を無料にしていいのか。そして私のマガジンを定期購読してくださっている方に失礼にあたるのではないか-。
本当に迷いました。
郷家選手本人からも「伝えてほしい。でもこれは安藤さんが真剣に描いてくれた作品。価値は計り知れない」という温かい言葉をいただきました。悩みに悩み、郷家選手とも相談した結果、価格を200円といつものスタートの価格の半分にし、これを最後まで読んでくださった皆様が、もし「思いが伝わった」と思ってくださったら、『サポート』という形でプラスしていただくようにしました。
あくまでこれは強制ではございません。この作品を最後まで読んでくださったことが一番の感謝であることに変わりはありません。
本当にありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
ノンフィクションライター・安藤隆人
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