齋藤孝 なぜ日本人は学ばなくなったのか。
読書感想文です。まず、著者について。齋藤孝さんは有名な方です。記憶では、明治大学の教授をしていた気がします。とても分かりやすい文章で、中高生にも届く言葉を巧みに操っている感じです。本書も中高生への警告のような、そんな文章にも読めます。
本書のテーマは、言わずもがな「なぜ日本人は学ばなくなったのか」です。
初めに、この本の最初では「バカを肯定する社会」「垂直志向よりも水平志向な社会」というものに警鐘を鳴らしています。
「バカを肯定する社会」とはどのような社会でしょうか。逆を考えてみるといいかもしれません。「バカを否定する社会」「バカが肯定されない社会」前者と後者ではニュアンスに違いがある気がします。前者では、「バカ」の存在を認めていません。バカは居てはいけない。バカであってはいけない。そういう雰囲気が感じられます。一方後者は「バカ」はバカとして認められはするが、決して褒められたような存在ではない。といったイメージでしょうか。今はやりの多様性社会としてはこちらのほうがしっくりくると思います。ここでキーワードが出ました。バカは褒められるような存在ではない。チヤホヤされる存在ではない。筆者はそれが1980年代までの日本人の勤勉性を作り出したと言っています。つまり、1980年代(バブル期)くらいから、バカをチヤホヤする社会へと変貌していったのです。バカでいることをチヤホヤする人たちがいる。バカでいることに胸を張る人がいる。そうした風潮が、日本人全体を学ばないようにさせた。というのが大方、筆者の言う「バカが肯定される社会」というものでしょうか。
もう一つが「垂直志向よりも水平志向の社会」です。これはズバリ「掘り下げない人たちが多い」ということです。自分の知らないことがあったときに、文献などにあたって知識を掘り下げる。自分よりも多くの知識、教養、知恵をもった人に敬意を払い、学ぼうとする。そういった学問への掘り下げ、もっと言えば、学問を通じた自分自身の深化ということを、今の人たちは怠っているのではないかということです。下へ下へ根を伸ばすことができない人は、頼りない基礎を携えて葉や茎を伸ばすしかありません。自分の知っているものの範囲で考え、一見どんな情報も簡単に手に入るインターネットの世界で、今の自分を満足させてくれるコンテンツを探し求める。それが現代風の「自分探し」だというのです。
余談ですが、私の大学時代の恩師の言葉で忘れられないものがあります。
「あの頃の私は、自分自身の気持ち、もやもやを言葉にすることができなかった。だから、探した。むさぼるように本を読み、自分のこの気持ちを描写してくれる言葉を探した。」
学問とは、読書とはかくあるべしと思わされました。飢え。飢餓感こそが学びに向かう力です。
本筋に戻りますが、言うなれば、筆者は、現代人は飢えていないと言っているのだと思います。もしくは、飢えを知らない。とでも言いましょうか。目の前にファストフードが山のようにあり、なにも思わずハンバーガーを食べ、コーラを飲む。腹が減った気がしたらすぐ注文して作ってもらう。そうした、知のファストフードしか知らない現代人たちが、空腹と闘いながら学問の険しい山を登っていけるとは到底思えません。学問に飢えていない。いや、知識に飢えることを知らない。なぜなら、垂直方向に掘り下げなくとも、水平方向にすいすい歩いているだけでそれっぽい人生が送れてしまうからなのです。
この二つが本書の冒頭で発せられた、現代日本人への警告です。
これから、第1章、どのようなことが述べられていくのか、楽しみで仕方ありません。
ちなみに、齋藤孝さんのことは、あまり好きではありません。
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