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短歌よりもさらに短い俳句という表現について|「遠山」を読んで

これまで短歌が好きで王道の歌集から個人制作のものまでいろいろと目につくものを買っては読み、感動したり(勝手に)嫉妬したりしてきたわけだけれど、じつはあんまり俳句というものには触れてこなかった。

特に深い理由はないが、三十一文字という短歌の制限を超えて、十七文字で表現できる世界が、ぼくにはまだわかる気がしなかったというのはあるかもしれない。

今日は高浜虚子の「遠山」という句集を読んだ感想を書きたいのだけれど、この本に出合ったのは、たしか神保町のどこかの古本屋。その時には購入せず、頭の片隅に残っていたものを、数年を経て偶然青山ブックセンターで新刊を見つけたので購入した。どうやら最近装丁を新たにしたものが発売されたらしいが、たまたま売り場に残っていた古い方を買ってしまった。

今日はもうあえてこの中で紹介されている俳句には触れないでおこうと思う。ただ、移動中などの隙間時間を使って飲むように俳句を読んで感じたことは、なんという一瞬の写実なのだということ。

以前、俳人の方の言葉で「感情でも思いでもなく、ありのままを言葉にする」といったようなものをどこかで読んだことがあって、まさにその通り。短歌ように、あるシーンに対しての余韻を含ませるような感想とか間接的な描写とか、そんな余裕もなく、ただ、そこにある風景そのものを切り取ったような言葉たち。

むしろ、切り取りきれていない、その片鱗くらい。もう一言、欲しい、そうでないとそれがなんなのか断定できない・・・・!というギリギリで言葉が終わってしまっているような感覚。「短い歌」と書く短歌よりも少ない文字数で表される世界、だから短歌は歌でも、俳句はもはや句、フレーズなのだ。

それは、短歌を読んだ時に感じる面白さとは全然違って、短歌でいうと、共感できると思えることも多いが、全くもってそこに至らない、もっと奥底の、言葉になる前の言葉という感じがする。短歌がありのままに絵の具を塗る行為だとすれば、俳句は絵の具を筆につけて、用紙に振り下ろす直前くらい。色さえわからないけれど、そこに至る空気の揺れだけが伝わってくるようなものだった。

というわけで、本当にただ思っていることを(いつもだけど)書いては見たけれど、これに関しては、短歌や俳句をやっている人に、ぜひ色々と聞いて見たいと思ってしまった。なぜ、短歌なのか、俳句なのか。という本質的な疑問でもって、今日の読書感想文は終わりにしようと思う。

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