役立つかどうか、について思うこと
昨夜の件の炎上について、すでにその思想に対する批判はたくさんあるし、当然そこに対しても思うことはたくさんあるのだけれど、僕としてはやっぱりあの空間にたくさんの本が並べられていたことに対してどうしても色々と思うことがあったのでこうして文章を書いている。
彼は(全然知らなかったのだけれど)読者家としても有名で一日10〜20冊もの本を読むこともあるらしい(そんなに読みたいと思わないけれど)。読書術の書籍まで出しているわけで、あそこに並んでいた本は自身がこれまで読んできたたくさんの本なのかもしれない。知の結晶とも呼べる大量の本を背景に、自分の思想を述べる。さもそれが知に裏打ちされた意見であるかのように。
なんというか、とても寂しいなと思った。本を読むという行為はたしかにすごくプリミティブに知を摂取する行為に他ならない。だけど、読書を積めば、知識を身につけたら知性が身につくのかというとそんなことはない。これは個人的な意見になってしまうけれど、読書の魅力はその内容はもちろんのこと、文字という単調な配列の行間にあるさまざまな感情だと思う。
自分が知らない情報に出会った時の高揚感、小説を読んで救われたような感覚になること、あるいはその内容がまったく理解できなくて頭の中がぐるぐるすること。たった一行の文章に衝撃を受けてその日一日放心状態になってしまうこと。そこで自分が何を感じるのか、次に何を思うのか。ある意味で読書は自分自身と向き合っているような気分になる。
だから、人がどんな本を読んでいようが、それに対してどんな感想を抱こうが、あまり気にならない。気にしなくていい。一生かかってもその大部分を見ることすらできない大量の本の海の中で、偶然出会ったたった一行、一章がそのあとの人生を変えることだってある。それはかなりレアなケースかもしれないが、いろんな感情と触れ合うことを期待して、次から次へと本と出会う。だから、人生で何冊の本を読んだとか、そこからどんな知識を得たのかとか、そんなことはどうでもいい。自分の中で本を読んで自分自身の新たな発見がある。それだけで、もう読書は尊いのである。
だから、個人的には書籍で得た知識を盾に、自分の権力を誇示するような姿勢はあまり好きではない。もちろん、自分が考えていたことを代弁してくれている本に共感したり、自分が主張したいことを補完するために過去の文献を尊敬を持って引用するようなことはよくある。そうではなくて、他人の知を盾に使って、自らを守るような態度は、ある意味では失礼にもあたるような気がする。
役に立つかどうか、といった話も出ていたが、そもそも読書のほとんどは役に立つものじゃない。少なくとも読み終わってその場で「役に立った!」と思ったことは個人的にはない。もちろん新しく知ったことはたくさんあるし、いろいろとメモを取ったりもしてきたけど、「役に立つか」で本を選んだことはない。
そんな観点で本を選ぶなら、純文学とか短歌とか写真集とか、まったく必要がないことになる。だけど、僕としてはそういった類の本から多大なる影響を受けているし、役に立たない本が面白くないと思うのなら、それはとても貧しいことだと思う。これは読書に限らず音楽や芸術も同じだろう。
だけど、役に立つかどうかではない視点で対峙しているからこそ、驚くような感覚に出会うことができたり、思いもしなかった未来へと自らを導いてくれることがある。未来はほとんど偶然が絡み合ってできている。その要素は全てが役に立つものではない。役に立つものだけを積み上げて出来上がる未来は、予定調和のつまらないものだろう。
勉強だって同じだ。役に立つ知識を暗記することがその本質では決してない。あらゆる情報・知識を頭に詰め込むことで勉強が完了するわけではないし、暗記したことをテストで答え合わせしてもそんなことが何かにつながるということはほとんどない。新しい情報に向き合う中で、ふと頭の中で知識と知識がつながったり、ちょっと応用してみることで別の道が見えてきたり、溜め込んだ取るに足らない情報をつなぎ合わせて、寄り道したり新しい道を作ってみたり、そういう過程というか考え方自体が勉強の本質な気がする。
そういう点では、知識も情報も単純作業も無駄なものはほとんどないのかもしれないが、役に立つかどうかは現時点ではわからない。それが役に立った時に初めて「役に立つかどうか」がわかるのだ。
そもそも、読書も勉強も、誰かと比較したり、明確な目的のためだけに取り組むべきものではないと思う。自分自身が純粋に楽しければそれでいい。それ以上でも以下でもない。向き合うべきは自分自身だ。
それと同じことなのかもしれない。私は誰かの役に立つために生まれてきたわけじゃない。誰かのために生きてるんじゃない。ただ生きて、いつか死んでいく。その過程で誰かの役に立つこともあれば、迷惑をかけることだってある。迷惑ばかりかけて生きていくかもしれない。
だけど、それらは全て結果論だ。それを誰かの恣意的な視点で現時点で役に立つかどうかを決めることはただ間違っているというだけじゃなく、視点が超短期的すぎると思う。もっと向こうを見てごらんよ。自分自身を見てごらんよ。自分が楽しいと思うことを突き詰めなよ。それが自分の人生なんだから。自分が文句を言えるのは、責任を取れるのは自分の人生だけなのだから。
さて、思いのままに書き殴っていると取り止めがなくなりそうなので、最後に、もう一つだけ。
進化というのも同じことで、強いものが生き残るのではない。生き残ったものが強いのだ。それは結果論でしかなくて、ある時点で誰かが勝手にそれを強いかどうか決めることは間違っている。そんなことを決める権利は誰にもないのだ。