或る終わりと始まりについて
月並みなタイトルをつけてしまった。終わりと始まりを考えることは誰しも珍しいことではないのだろうけれど、人生の中で大切な人の終わりと始まりに向き合うということはそう多くないのかもしれない。それはもちろん本当の意味での終わり(死)と始まり(生)ということもあるだろうし、その人が生み出す何らかの作品やブランドの終わりと始まりであっても、その重要度はさほど変わらない。終わりを考えることと、始まりを考えること、またそれらに立ち会い、関わり、むしろその終わりと始まりを作っていくということは自分自身の価値観にも大きな影響を与えるのである。
特に、終わりを作り上げるというのは、とても神聖な行為だ。終わりは突然やってくることがほとんどで、終わってから終わりに気がつくことが多いが、終わりを予め見定めて、そこに向かって準備をしていくという、終活のような行為は当然神経を使うし、そのぶん最期の瞬間の感動は一入であろう。
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今、私は大切な友人と共にそのブランドの最後に向けて作品を作っている。これまでのブランドの5年間を象る辞書のような本だ。時間をかけて紡ぎあげた15万字を越える5年間の文章は、それはそれは大変な感情のこもり具合で、僕の知らない世界がそこにたんまりと広がっていた。
最初から最後まで一度読むだけでも丸一日近い時間を要したが、それはそれは大切にされてきたことが手に取るようにわかる文章たちだった。伝えたいとか、読みやすいとか、綺麗だとか、そんな感想よりもまず優しい、大切にされている、そんな印象を受けた。時にワクワクし、時にドキドキして、ある時は急にうるっとしてしまう。最後にはあらゆる感情が押し寄せてきて、ブランドのことを好きになってしまう。なくなることが惜しいと思ってしまう。これこそが彼女の魅力そのものだ、と思った。
そして、私はそんな大切な文章を編集しているのである。それはどこか、愛情込めて育てられた食べ物を収穫して調理する気分のようだ。ただ刈り取って調理するなんてのじゃあ心が許さない。刈り取るにもまずお礼を言って優しく包み込んで、それから感謝の気持ちを込めて整えていく。「性食考」という本を思い出したが、まるでそんな気分になりながら文章を編集している。本当に手を合わせてしまいそうになるくらいだ。基本的には文章を並び替えたり、大きく修正したりはしない。素材はいい形のそのままで、ほんの少しずつ磨いていく。この文章にふさわしいのは漢字なのか平仮名なのか。この改行は必要なのか。ここは数字のままでいいのか、漢字にすべきか。そんな作業をこの数週間一緒にやらせてもらっている。
ほとんどの人にとってはこの仕事の意義はそれほどわからないかもしれない。最初の文章と何が異なるのか、あまりわからないかもしれない。だけど、それでいい。編集という仕事は、伝えたいことが一番伝わるように文章を整えていく仕事であるから、今回で言えば彼女の心の内側が見えるような文章になることが一番大事なことで、そのためには文章を文章として読んでもらっては困るのである。この文章は声であり、感情であり、彼女自身でもある。だから、言葉であることを感じさせないような言葉として言葉を選んでいくことが今回の編集の役割そのものなのだ。
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さて、ブランド終了まで50日を切った。終わりはもうすぐそこだ。この本の校了が近づくということは、終わりがより一層近づくということだ。あと二ヶ月もしたらそのブランドはもう存在しない。そんなブランドのことを今時間をかけて知ろうとしている。それはとてもプリミティブな行為だとも思う。
正直なところ、まだブランドが終わるという実感はあまり湧かない。というか、彼女自身がそこにはもっともっとたくさんのことを感じていて(あまり表には出さないけれど)、おそらく私はその破片を彼女が編集する文章から読み取っているような気がする。それはとても贅沢な行為である。そして、そこで感じたことはさらに私が編集において文章に生かしていく。終わりに向けて、その文章を生かしていく。なんとも矛盾しているような、行為。それも編集という仕事の面白さなのかもしれない。
終わりに向き合い、終わりを考える。それがもっとも美しい形で記憶に残るような創作をする。そして、終わりを迎えて、彼女はまた始める。何かを。終わりを作るというのは、ある意味ではその先にある始まりを作る仕事でもある。今ブランドは終わるが、彼女のその先はそこから始まる。始まるということはそれは続いていくのだから、この終わりを彩る仕事は或る意味ではその先に待つ始まりを彩る仕事でもあるのかもしれない。そう考えると、より一層今やっていることの特別さがわかる。
本当にまとまりのない、感想のような文章になってしまったが、取り急ぎお披露目を前にした今の私の気持ちを書き残しておきたいと思った次第である。心はとても穏やかである。