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TOKYO UTOPIA

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余白を余白のまま価値とする。モノに溢れた現代においては、そんなことが可能だと思う。光と水、香り、音、そして触れること。そんな簡単なものだけで、求めている世界は作れるのかもしれない…
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2019年9月の記事一覧

無駄なものと暮らす

「好きな自宅は?」と聞かれたら「フィンランドにあるアルヴァ・アアルトの自邸」と答える。ヘルシンキの中心から少し離れた高級住宅街にひっそりと立つお家で、書斎からの眺め(上記写真)が最高なのはもちろんのこと、この家には“あらかた生活必需品の類が見られない”からだ。いや、本当は生活必需品もたくさんあると思う。だけど、全てこだわり抜いて集めた逸品ばかりで、全て趣味の蒐集品のように見えたのだ。 生活に必要な最低限のものしか持たない「ミニマリスト」という言葉があるが、僕は其れが少し苦手

落ち着く場所が見つからない。

仕事を終えて、帰る場所。自宅はつねに安住の地であるべきだと思う。だが、東京へ来て10年。8回の引越しを経てもなお、それは見つからない。 今年4月に1年半ぶりの引越しをした(僕にとっては比較的長く住んだ方)。理由はシンプルで、新しく購入したドラム式洗濯機が通路を通らずに搬入できなかったから。自分でもバカだなあと思うが、せっかく手に入れた高級家電を無駄にはできず、すでに2年の更新も迫っているからという理由で、引越先を探していた。 そんな中で、立地は少し悪いがバス停も近くにある

美術館が欲しい。

シェアリング・エコノミーという言葉が普及して久しいが、ぼくはずっと「アンチ・シェアリング・エコノミー」という考え方が大事だと考えている。 シェアリング・エコノミーというのはその名の通り、ものごとをシェアすることで、無駄なく経済を回すというもの。しかし、ぼくはシェアリング・エコノミーの本質は決してこの「共有」ではないと思う。「感情喚起」にこそ、シェアリング・エコノミーの可能性があると思うのだ。 これはよく言われていることだが、洋服のレンタルサービスの登場によって洋服が売れな

どこまでが内で、どこからが外なのか分からない曖昧な世界

日本建築ってやっぱり内と外が曖昧だよなあと思う。そもそも、昔のお屋敷ではだだっ広い広間に屏風を立てて適当に(可変的に)部屋を仕切っていたわけで、そもそも日本古来のお部屋では、仕切りの文化が曖昧だったりする(この辺の話は柏木博氏の「『しきり』の文化論」に詳しい)。 写真はかなり昔に行った京都の源光庵。丸い「悟りの窓」と四角い「迷いの窓」、そして争いの跡が残る伏見城遺構の「血天井」が有名だけど、ここはとにかく外と繋がっている空間だなあという印象だった。廊下には全て縁側があって、