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#064 1999年、夏

東京に働き口を見つけ、京都を後にしたのは1999年夏のこと。

その頃熱心に読んでいた『Tipo』の影響で、クルマはバーキン・セブン(160万円)、プジョー・205(15万円)、シトロエン・AX(タダ)と乗り継いでいたものの、車体価格の下降は生活レベルの下降そのもの。20代も後半になり、はてこれから先どうしたものか。漠然とした不安が日に日に増す中、Tipo発行元の出版社に拾われた。

AXがウンともスンとも言わなくなり、代わりに買ったのが日産のマーチだ。アパートからアルバイト先へ向かう途中の中古車ショップで、それはずっとほったらかしになっていた。価格は5円。ゴマンエンの間違いじゃなくて、ゴエン。価格や走行距離はボードにさえ書いてもらえず、フロントウインドウにマーカーかなにかでなぐり書き。いかにも先行きのない様が身につまされ、引き取ることにした。

無論5円だけ置いてくるわけにはいかず、名義変更やら手数料やらで数万円は払ったものの、それくらいならよろこんで。エンジンにも足まわりにも内装にも問題らしい問題は見当たらず、真夏の高速道路もなんのその。小舟のようにブワンブワンと揺すられながら、僕らは一緒に上京した。

出版社での仕事は社長のかばん持ちだった。初仕事はフェラーリのF355チャレンジを町田のコーンズから社長宅に運ぶというものだ。正体不明の新入社員によくもまあそんなことをさせるもんだと思ったが、「これが成功者の豪放磊落さってやつか」とも思った。

社長宅に着いた時の光景は忘れられない。少し離れたガレージに案内されると、そこにはF50、F40、275GTB、250GT SWBという新旧フェラーリが保管され、さらにはポルシェのカレラアバルトまで。それらのヒストリーをひとしきり上の空で聞いた後、「いいか、お前は俺に迎合するんじゃない。俺が間違ってる思ったら遠慮するな」と言われたことを鮮明に覚えている。

定職を得て安定した収入が毎月入るようになった。しかもそれは年々こちらの言い値で増えていった。会社には年俸制が導入され、交渉次第で上乗せされたからだ。

そんな生活の中、5円のマーチは新車のマツダ・RX-7になった。仕事ではジャガー・XJ6を自由に使えた。色々なひと、もの、ことに触れ、ちょっとばかりいい思いができた。

時々あのマーチを思い出す。4段のマニュアルシフトはいつもグラグラで、ペラペラのドアからはなんとなくすきま風。ひとり乗りの時は運転席側にかしげながら走ってくれていた。今でも時々その様を思い出す。

数か月前、50歳になった。
思えば初めて会った時の社長が50歳だった。
はたして、先行きのなさはあの頃とさほど変わらない。
年齢を重ねた分、あの頃よりもそれは心もとない。
これから先どうしたものか。

マーチの鼻先を東京へ向けたあの夜、人生のページがゆっくりとめくられた。街で見かけるとだから、いつでもほのかな未来を思うことができた。道具箱の中から定規やコンパスや肥後守やフエキのりを取り出した時の、でっきるっかな♪ という気分に。

けれども今、あの頃のマーチを街で見かけることもなくなってしまった。

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