言葉は、思考や感情を「記すもの」ではなく、「呼び出すもの」という発想
1.言葉とは「呼び出すもの」
最近noteを読んでくださった人から、何度か文章を褒められることがあったんですが、実は自己認識では逆で、子どもの頃からずっと言葉や文章に苦手意識を持ってきた人間です。でも、長い大学での研究生活を経て、少しずつ「言葉を使うとはどういうことなのか」という目処が立つようになりました。今日はそのことを書こうかなと。
わりと多くの人が、「言葉や文章は、自分の内側にある思考や感情を記すものである」と考えてらっしゃるんじゃないかと思うんですが、実はこれ、逆なんだと気づいたのが、僕の中の文章への苦手意識克服のきっかけになりました。端的にいうとタイトル通りなんですが、言葉や文章の方が、自分や他人の内側に「思考」や「感情」を「呼び出すもの」として考えると、色々とすんなり行くようになりました。
SEやプログラマーの方には割と通じやすい発想だと思うんですが、例えばこんなコマンドをホームページを作るときに使ったりします。
<a href='https:www.********.com'>リンク先</a>
htmlのリンクを貼るためのコマンドなんですが、このコマンドは「"リンク先"という単語をクリックしたら、https:www.********.comという場所へと飛ぶようにしなさい」という命令を、「リンク先」という単語に割り当てる役目を持っています。単語と命令の間には、必然的な関連性はなく、これらのコマンドは、その命令を「呼び出す」ために使われています。
2.では何を呼び出すのか
言葉も同じだと考えてみてください。言葉もまた、先になんらかの思考や感情があって生起するのではなく、むしろ逆で、言葉こそが、我々の内側に思考や感情を呼び起こすためのコマンドの役割を果たしている。そのように考えると、「言葉」と「文章」にまつわる、いろいろなことがすごくスッキリと理解できます。
理解を進めるために、言葉に関してよく起こる現象を取り上げてみます。新しい言葉はよく批判の対象になりますよね。例えば「エモい」という言葉を取り上げてみましょう。一時期、批判の対象になった時期があるんですが、その批判の論旨は「エモいという言葉は感情の矮小化である」というような感じでした。つまり、先になんらかの「感情」があって、本来微細に表現されるべきその感情を、ただの一言、「エモい」で片付けて矮小化してしまっていると。でもこれ、逆だと考えてみましょう。感情が先にあって、それをエモいと名付けるんではなくて、エモいという単語が、その先にある何かを呼び起こすコマンドとして機能していると考えてみます。ではいったい何を呼び出しているのか。それは「エモい」という単語が刺さる世代への文化コードや社会的含意の呼び出しです。「エモい」という単語を見た時、若い人たちはその言葉で喚起される様々な経験を、その体験と一緒に呼び起こしながら、自分の「エモさ」を思い出すでしょう。新しい言葉や表現が比較的歳の上の人たちや、「正しく美しい日本語」を信じたい人たちに嫌われるかというと、その単語が彼らの内側に生起する経験や感情が見当たらないからです。それに対する不安や嫌悪や反発が、例えば「エモい」だったり、あるいは最近では「うっせぇわ」という表現への批判へと結実していくわけです。(文学系の人には、『ライ麦畑でつかまえて』の"Fuck you"の騒動を思い出していただければ、この話もすんなり通るかと)
少し脱線しました、話を元に戻しましょう。言葉とはつまり、その先にある経験だったり感情だったり認識だったりを「呼び起こす」ために駆動するのであって、先にそのように表現される感情があるわけではないということなんです。そしてそれがさらに長くなったのが文章です。文章とはつまり、その「呼び出しコマンド」として機能する言葉を適切に配置して、読み手のさまざまな感情や思考を引っ張り出すための手続きであって、「自分の感情や思考が先にあって、それが元になって生み出されるもの」ではないということです。むしろ自分の感情や思考さえ、自分が発する言葉によって組み立てられていく。その先に読者や社会がいるというイメージです。
このような考え方は本末転倒だと思われるかもしれませんが、実は日本人には割と馴染みのある発想ではないかと思っています。それは例えば、一人称の使い分けに現れます。僕、私、俺、うち、ワイ。みなさんやっていることだと思うんです。本質的には同じ「自己」のはずなのに、一人称を変えることで、それが呼び出す「思考」も「感情」も変わっていく。書き手も読み手も、一人称の変化の先にあるものを各自で呼び出してしまうんです。
このことが分かった時、僕はようやく文章をある程度書けるようになりました。僕はずっと、「自分の内側にある言葉や思考を正確に書かねばならない」と思い込んでいたんですね。でも、そもそも自分の内側には何もない。言葉によって、むしろ自分の内側にいろんな思考や感情が引き出されていく。そしてさらにそれを読んでくれた読者の内側にも、言葉が生み出した思考や感情が生起していく。言葉とは、思考や感情を「呼び出すコマンド」なんです。
3.SNS時代に言葉を使うことの怖さと希望
このことで重要な観点は、「言葉は自分だけでなく、他人の内側にある感情や思考をも引っ張り出しちゃう」という点。これを意識するしないで、SNS時代の表現がガラッと変わってきますし、リスク管理で見るべきところが変わってきます。
例えばここしばらくオリンピック関連で舌禍が続いています。舌禍を起こした当事者の方達が、おそらく内面では「そんなつもりで言ったんじゃない」と思っていらっしゃるでしょう。多分そうなんでしょう、「内側」にはそんな感覚はなかったのかもしれません。でもそれは違うんですよね。言葉は自分だけではなく、不特定多数の「思考と感情」を引っ張り出してしまうんです、表に出た瞬間。彼らがいかに「それは誤解だ」と考えようとも、すでに言葉が喚起してしまった実態としての「思考と感情」は、もはや止めるべくもないし修正もできない。言葉とはそういう本質を持っているんです。
こういうふうに考えると、「たかが言葉」って考えるのは怖いと思いませんか。言葉は時に、何百万、何千万の人々の「思考」「想像」「感情」「認識」を引っ張り出してしまう。僕は時々、言葉の持つ喚起力をパンドラの匣のようだと感じる時があります。いいことも悪いこともぎゅうぎゅうに詰まっている匣にアクセスできる、ただ1つツールが言葉なんです。いいことだけを呼び出せたらいいのですが、言葉というのはある段階以上からは一人歩きして、制御不能になる側面を持っています。でも、そのような過剰な力があるからといって、何も語らなければ、多分世界には何も生まれません。言葉を失うこと、言葉を奪うことは、世界を失い、世界を奪うことに他ならない。そのことだけは、常に強く強く信じています。言葉を損なうことは、人を損なうこと、社会を損なうこと、文化や世界を損なうこと。だから大事に使う。
時々怖くなることもありますが、パンドラの匣の底には「希望」が残っていたという逸話を信じて、日々言葉を紡いでいくしかないんですよね。