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いつも目に見えないものに惹かれる

写真をやってるのに不思議なものだけど、これまでの人生で僕が強烈に惹きつけられたものは、目で見えないものばかりだった。中でもひときわ僕の人生に強い意味を持っているのは、グレン・グールドのゴルドベルグの演奏だった。

グールドとの出会いは大学に入った頃だ。その頃の僕と言えば筋金入りのロック好きだったのだけれど、小さい頃からピアノを習っていたので、幾分クラシックにも興味があった。ちょうど高校の頃から読み始めた村上春樹の初期作品『風の歌を聴け』で、主人公が親友の誕生日にグールドのレコードを贈るというシーンがあって、ずっと気になっていたというのもある。大学入って最初のバイト代が出た時、新譜のロックアルバムを我慢して、思い切って購入したのがグールドだった。

その時のことを今でもよく思い出す。ほとんど魂の全部を持っていかれる位の衝撃を受けた。そんなことは、人生においてそう多くは起こらない。

グールドの演奏はゴルドベルグに始まって、ゴルドベルグに終わる。55年の衝撃のデビューをゴルドベルグで果たし、81年に再録を残したあと、まるでこの世界での全ての使命を終えたように、グールドはこの世界を去る。この演奏を聞いた時、強く強く惹かれた。どこまでも研ぎ澄まされ、どこまでも静かな完全なピアノの音。人間はこんなところにまで行くことができるのかという、ただただその圧倒的な完全性に打ちのめされた。僕がその時に思ったのは、「この時点で一度人類はもう終わったんだ」という、よくわからない感想だった。それは多分こういうことだ。神が何らかの目的を持って人をこの世界に作ったのだとしても、偶然によってたまたま猿から進化しただけの異形の生物なのだとしても、多分グールドが作った音以上のものは、人間はもう二度と作り出せない。幾分誇大妄想気味だけれど、僕は18歳の時にそのように感じたのだった。ところが不思議なことに、他のいろんな誇大妄想は全て失うか捨ててきたけど、この時感じたグールドへの感触は、今もあまり変わっていない。多分、これ以上のものを人類はもう作ることが出来ない。ここが完成で、終着点だと思っている。

その後、グールドのことを調べていくうちに彼の人生の色々なことを知るようになった。そしてこの映像でも出てきている、彼がピアノを引く時に座っている椅子の逸話も。晩年に至るに連れてさらに偏屈になっていったグールドは、この椅子以外では決して演奏をしなかった。父親がかつてグールドのために作った椅子。そしてカバーの外れたピアノ。その姿を映像で見た時、涙が出た。音楽で泣いたのははじめてのことだった。

完全な音楽を作り出した男の、その孤独の深さに打たれたのだ。我々凡俗から遠く遠く離れた場所で、ただ音そのものへと向き合う絶対的な孤独。誰からも理解されないその内面を、全て、音へと昇華させる人生。実際グールドがどんな風に世界を見ていたのか、人間を見ていたのかわからない。ただ、あまりにも楽しそうに音に没入している姿を見ていると、涙が止まらなかったのだ。こんなにもただ一人で、人生を遊んできたのだ。誰とも一緒に遊べない、神に最も近い彼だけの場所で。楽しそうに、一人で。

その彼を支えるのは、父親が作った30センチの椅子。彼の人間的つながりの最後の一片を、彼は生涯手放さなかった。

ゴルドベルグ変奏曲は、最初に提示されたアリアを、30個のヴァリエーション(変奏)で弾くという形になっている。第30変奏はクオドリベットという。当時のドイツで流行った音楽の要素を取り入れた、変奏曲の最後の一遍。この後もう一度アリアが演奏されて、ゴルドベルグは終わりを告げる。若さあふれる55年版では、ほとんどあっさりと思えるほどに軽く引き終わってるこのクオドリベットが、81年版ではまるで音の放つ光の全てを、グールドがもう一度じっくり受け直しているような、そんな印象を受ける。研ぎ澄まされているのに、ゆったりとした深みも感じる。それはどこまでも広がる平野に、誰も見ていない朝の光が満ちていくような、世界の動きそのものが音と変わって鳴り響くような、何一つ遮るもののない完全な美しさ。死ぬ瞬間、グールドがどこに至ったのかはわからないが、少なくとも彼はこの音が放つ光を見て、いつもピアノを弾いていたはずだ。もっと明晰に、もっとくっきりと。最も美しい光を見ながら。

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