「君たちはどう生きるか」を初めてみた夜の殴り書き
宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」がアカデミー賞の長編アニメーション賞を獲得した。この映画に関しては、公開当時にスタジオジブリが一切の情報を出さない状態で封切りされていたため、長く感想じみたことを書かないようにしてきたのだけれど、大きな賞も受賞したことだしそろそろ自主規制も必要ないかなと。と同時に、この映画を見た後の衝撃が、今週末の19日に発売する自分の本を書きはじめた一つの遠い理由になっているということもある。
僕が「君たちはどう生きるか」を見たのは2023年の7月20日で、公開から6日後のことだ。そしてその日に書いたのが、今から下に転載する文章だ。見終わった瞬間から、この映画が宮崎駿のキャリアハイになると感じた。しかもこのキャリアハイは、宮崎駿が監督としてのキャリアを終える少し先の未来に渡って、数回更新されていく、右肩上がりの「キャリアハイ」のその通過点に過ぎないと。そう思った理由は、80歳になろうとしている宮崎駿の強烈な「想像力」と「創造力」は、次も、また次も、地下から吹き出し続けるマグマのように、彼を突き動かしていくであろうことが予想されたからだ。その熱にあてられた。そう、まさに「あてられた」というのに相応しい。
人間は、年齢なんて関係なく、想像/創造していいんだという、当たり前の事実を改めて突きつけられた。老いるにつれて、物分かりのいい、怒りもしない代わりに喜びもしない、穏やかな微温の中で生きるのが「老い」、そんな誰が考えたのかよくわからない「老人像」に自分を当てはめようとしていた。
立つ鳥跡を濁さず、もちろんそういう美学も存在するのだろうけれど、宮崎駿は映画の中で、もがきまくっていた。「もう書くことなんてないよなあ」と思っていた自分の怠惰と臆病が恥ずかしかった。ある程度仕事が軌道に乗って、今更何か新しいチャレンジをしなくても、なんとなく仕事がうまく回るようになっていて、「現状維持」をしようとしていた自分が恥ずかしかった。宮崎駿の暴力的なほどの苛烈な想像力は、ただひたすら「創りたい」という強烈かつ純粋なエネルギーを放っていて、そこに言い訳は何もなかったのだ。そのエネルギーに背中を押されて、僕は自分の本を一冊書くことになった、のだと思う。
そのような強烈な衝撃が何によってもたらされたのか、あの映画の核心はなんなのか、それが以下の文章だ。文章は、2023年の7月20日、レイトショーの映画を見終わってすぐに書いている。
念の為、以下の文章には映画の内容が含まれている。ネタバレを気にされる方は、以下を読む際には気をつけてほしい。
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断章的感想:映画「君たちはどう生きるか」
・なるべく内容には触れないように。でも少しは触れる。
宮崎アニメに身体性が返ってきた。誤解を恐れずにいうと、それが今回大傑作になった理由。
小さい時絵本が好きだった。ページを捲るたびに、違う世界がそこに現れるその体験が、僕の最も小さい頃の最高の喜び。
アニメーションとは、動かない二次元の絵が連続で合わせられることによって、人間の脳がその間を補完して描き出す「幻想の世界」。アニメーションとは、本来そこに存在していない「動き」を、人間の脳の力が補完することで成立する。
アニメとは、命を与える行為。止まっているはずのものに動きを与える行為。だからこそ、アニメは身体性を持たなければいけない。そしてその最も偉大な体現者が宮崎駿だった。
ナウシカの「風」に乗るメーヴェの動きと、地響きを上げて襲いくる王蟲
ラピュタの天空から落ちるシータと、塔の上を駆け上がるパズー
強弓を放つ半神のアシタカと、祟り神の暴走
全て止まった絵が重ねられた先に与えられた、神業のような動感。まさにそう、神の技に等しいもの。それが宮崎アニメの原点であり、スタジオジブリの真骨頂であり、どのアニメーターもその領域へと辿り着けない神域だったように思う。
でも千と千尋あたりを境にして、宮崎駿はおそらく「作家」になってしまった。つまらなくはないし、表現に「動き」が追求されているのはもちろんわかる。どれもいい映画だった。ポニョの動きは可愛かった。でもそれは、作品のテーマを語るために作り上げられたもののように思えた。ベクトルは逆だったのだ。
風の谷は、その名の通り「風」が吹くことで腐海から守られた小さな谷こそが全テーマを通じる一貫する「動き」を象徴し、だからこそナウシカは風に乗り、その風の動きが鮮やかで艶やかであるからこそ、テーマは動きと常にせめぎ合いながら昇華されていった。風というモーションこそが、哲学を生み出す。
ラピュタも同じだ。あれは「天空」のものだった。常に主人公二人は「上下」の運動を繰り返しながら、上へと急速に上り、最後は下へと帰っていく。その激しい動きの行き着く先は、シータが言った一言に集約される「人は大地を離れては生きていけない」。動きこそがテーマを抽出し、体現し、そして描き出す。
逆ではない。テーマがあって、(ここで文章が途切れているのは、当時次が書きたくて、まどろっこしくてカットしたからだ。言いたかったことは「テーマがあって、動きが決まるのではない。動きへの憧憬が、テーマを決める」みたいなことを書こうとしていた)
でも千と千尋が終わった後の宮崎駿は、先にテーマが物語を立ち上げ始めるように思えた。それは彼が紛れもなく偉大な作家であるからであり、何も責められることではない。でも僕は寂しかった。絵本が大好きで、ページとページの間に存在しない「幻想」を追い求めた僕は、宮崎駿が作り出す、動かない絵から飛び出してくる「幻想の動き」に魅惑されてきた。ナウシカに、ラピュタに、もののけ姫に。だから、最近の作品も好きだけど、「もうあの宮崎駿は帰ってこないのかもしれないな」、少しだけ諦めかけてた先に、今回の映画が出てきた。
タイトルは「君たちはどう生きるか」、全面に押し出される「作家」「思想家」としての宮崎駿。嗚呼、、、と不安がよぎった。タイトルはどのような「動き」も示していない。それどころか、動かない、考え続けなければならないような重苦しいタイトルだと思った。だから、積極的に見たいと思わなかった。
でもそんな僕の予想の全ては離れた。冒頭こそ、一瞬だけ不安がよぎったけど、徐々に加速していくのはイマジネーションの広がりとともに、小さな小さな世界から始まる物語は、恐ろしく暴力的な自然の摂理のように、激しく動きながら拡張していくさまだった。そしてその動きのどれもが、この映画のために10年かけて徹底された「アニメーション」の極地が実現されていた。1秒1秒、進行していくたびに、僕はただただその「動き」に圧倒された。物理の、想像力の、その拡張の激しい動きに。宮崎駿は、82歳にして、再び神の領域へと戻った。動かない二次元の絵が、動き出し、飛び出し、登場人物たちに「アニマ」を与え、動く存在へと変える神の技の職人へと。
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