道徳教材「蹴り続けたボール」批判、その後
先日書いた、道徳教材「蹴り続けたボール」を批判的に考察するこの記事。
私がこの教材を知るきっかけとなった院生に、「note記事に書いたよー」と知らせたら、それへのレスポンスが返ってきた。
気になっていたアンガーマネジメントとのつながらなさの背景にこうした改変があったのかと、腑に落ちてくれた様子。
それで、興味深いのは、そこから先。
彼女にとっての一連の経緯を簡単にまとめると、こんな感じだろう。
私は、こういうのがまさに、「省察的実践」であり「省察的対話」であると考えている(by ドナルド・ショーン)。
私はこれまで道徳教材の批判を繰り返してきたし、実際、それが抱える問題は看過できないものだと思っているが、私が究極的に目指しているのは、完璧な道徳教材を作ることではない。そんなことは不可能だ。
そうではなく、私が一番大事にしているのは、教師(や教師志望者)がこんなふうに自分の頭で考えて、実践をしていけるようになること、そして、それを許容・促進するような教員養成や教育施策のあり方にしていくことだ。
「偉い人」が「こうあるべき」を示してその忠実な実行が求められる、ハイスペックなロボットとしての教師ではなく、「省察的対話」を行いながら「省察的実践」に取り組むことができる教師。
今、「自分の頭で考えて」という言い方をしたが、これは、ひたすら理屈をこねる、「頭でっかち」な教師を育てるということではない。
むしろ、今回のHさんの事例でも、鍵になっているのは、教材へのモヤモヤ、授業中の生徒の意見へのモヤモヤなど、いずれも感覚的なものだ。
そうした感覚的なもの、直感が先行し、それをもとに考えたり誰かと対話したりすることによって、その理由が自分にも整理されてきて、教材や子どもへの見方が変わる。
それのなんと豊かなことよ。
(なお、しばしば誤解されていますが、「省察(リフレクション)」概念自体、本来はこうした感覚的なものに重きを置くものです。)
教材の解釈や扱い方に関して、これからも私は自分の信念に基づき遠慮なく批判を行っていくつもりだが、私がやりたいのは、そこでの自分の教材解釈や扱い方を唯一絶対のものとして押し通すことではない。
むしろ、私の批判は、「知らぬ間に、なんか狭い見方にとらわれていませんか〜」という、教師(や教育関係者)に対する揺さぶりにすぎない。
それを踏み台にして、あるいは時には私(渡辺)の批判自体にも疑いの目を向けつつ、先生方が、専門家としての自分の感覚を頼りに、誇りをもって仕事に臨んでほしい。
それが私の願いだ。