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「ぼくのブック・ウーマン」の授業を見る②

こちらの投稿の続き。


附属小金井小・小野田雄介先生による、「ぼくのブック・ウーマン」第2時。

昨日の続き、後半部分を配る。先生が音読する。子どもたちは、円形の机配置でそれを聞く(机の数を減らして、子ども3人に机2台くらいにすることで教室内での円形配置を可能にしてるの、初めて見た)。

末尾の「この物語は、〜もとに生まれました」まで読み終える。先生はすぐにはしゃべらない。子どもたちの間にさざめきが起こる。

「てことは、女の人、図書館員…」「感動する」「なんかすごいな」。

その後自由に感想交流。そして最後に、それぞれ感じたことをプリントに書く。

子どもたちの読み、興味深い。

途中で、「家に本を届けてくれる人」というところから、「ヤクルトのおばさんみたい」という話になって、さらに、荷物配達や置き配の話にもなる。

「おばあちゃんが宅配便の人にめっちゃ話しかけてて仲良くなってた」

といった、盛大な脱線のような話もでるが(しかも「わかるわかる」とえらく共感を呼んでいた)、

「それ、(この話と)おんなじじゃない? 『今夜は、とまっていけばいい。』とか」

などと、本文に戻ってくるのも面白い。

「最初の挿絵と後の挿絵では「ぼく」の「ラーク」に対する目線が変わってる。最初は憎たらしそうに見てたのに」

など、よく見てるなあと思うし、

「冬から春にいくのと、カルが文字が読めるようになるのが重ね合わせられているんじゃないか」
「雪解けが、本への苦手意識が薄れていくのを暗示してるんじゃないか」

みたいなのもすごい。

もっとも、これだけいろいろ考えられる子どもたちであっても、私が「あれっ」と思ったのは、彼らの多くが、ブックウーマンの行為を、「やさしさ」の観点から捉えていること。

「本を渡しに来るなんて、やさしい」
「(家の中に寒さが入らないように窓から手渡すのが)家の人への配慮を忘れず、やさしい」

といったもの。
字が読めて当たり前、本があって当たり前の今の彼らにとって、識字ということがもつことの意味とか、文字文化と知の世界を多くの人に開くための人々の尽力とか、図書館は単なる本の貸出業ではないこととか、そのあたりのことはなかなかイメージがつきにくいのだろう(子どもたちは、というか、社会の中でも十分認識されていないかも)。

たしかに、子どもが書いたもののなかには、

「ブックウーマンはカルのような人に本を好きになってほしいのかなと思った」
「みんなに読んでほしいと思う心がすごい」
「学校に行って勉強できている今が当たり前ではない」
「タダで渡すのは、個人として自主的に? 国家か何かからの命令?」

などなど、それにつながるようなものも出ているので、今後の展開にかかっているのかもしれないが。

明日の時間割が変わったおかげで、第3時も見にいけそう。楽しみ。


続きはこちら。


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