悲願へ 第二部 13

 続きです。

 質疑応答に入り、最初の質問は松下幸之助の「根源の力」と著者の「絶対負」を同じと捉えてよいのかというものです。「根源の力」も「絶対負」も分かっておりません。本書にも出てきたのやら覚えておりません。

 「絶対負」は著者の思想の根源で、「宇宙の根源から出発して、すべてのものにその力が作用しており、すべてのものは『内部的な力』そのものに価値があるのだという考え方です。」とありました。そして「『負のエネルギー』が正しいという思想」だとありました。愛も「絶対負」で、生命の根源は全部、負のエネルギーによって支えられていて、それが生命的に正しいのが「絶対負」ともありました。この3点が自分の中で上手くかみ合っておりません。

 「負」と言われると、どうしても「正」に対しての「負」ですし、「負ける」とか「負う」という字ですから、良いイメージが湧きづらいのですが、地球上で我々が正のエネルギーと思っているものの方が、宇宙では特殊で、地球上では分からない、正に対する負ではなく、負が正しい、だから「絶対負」という名称を付けているとのことでした。

 松下幸之助の「根源の力」は、著者の言う「絶対負」にちかいものだとありました。また、地球上で力を持つのはすべて物質で、物質の力のよって支配されているので、愛という「負のエネルギー」が正しいというのは分かっていても、力にはならないとのことでした。そしてそれを力にしようとする思想が「絶対負」であり「根源の力」だということです。

 「愛を力に変える」には「生命を燃焼するしかない」、燃焼させるには「体当たり」と「問答無用」の人生を送ることだとありました。「体当たり」と「問答無用」は薄っすら理解できているつもりでしたが、「物質をすべて無価値にして切り捨てて、さらに捨てて何にも価値がないということにすると、初めて物心一如になれると言ったのです。人間は精神だけが大切で、心だけが大切なのです。愛に生きなければ何も無い。それ以外はすべていらないというくらいに生きて、初めて実人生という物質と愛の平衡が取れるかどうかという程度です。」とあって、全く浅いなと思いました。「物質を無価値にして切り捨てる」なんてどう実践して行ったらよいやら、、、ミニマリストとは違うかな、、、なんて思っていたら、「例えば空気を吸うというのも、吸わなければ死んでしまいますから、空気という物質は大切だなんて思わなくていいということです。空気なんかいらないのだと思ってちょうどいい。それでも呼吸はしますから大丈夫です。」とありました。物質に執着しなければ良いということなのかもしれません。物質を「捨てなかったら、物質という悪魔に自分の生命が取り込まれてしまいます。」ともありました。また、「服にも興味がない」と著者は言っていましたが、人間はリンゴを食べて罰として服を着ることになったなんて聖書に書いてあるそうですが、服という物質から脱することができないことが罰なのかもしれないなんて思いました。

 まだまだ続きます。時間を空けてしまうと、流れが止まってしまって、再度書くのに時間もかかるし、理解も薄まってしまう気がします。もう少し頻度を上げたいと思います。

いいなと思ったら応援しよう!