悲願へ 第二部 11
続きです。
ここから「愛とは何か」というタイトルです。「愛とは(中略)犠牲的精神のことです。」とありました。稲盛塾長も「自己犠牲の精神」と説いてくれていますが、自分のことは後回し、世のため人のために尽くすということでしょう。「生命というのは、捧げるものを見つけたら、本当に恵まれた、生きがいのある生命になったと歴史的に言われています。」とありました。そして、捧げるのは一人の他人でも、愛する女性・男性でも、愛する友達でも、国でも、会社でもなんでもよいのだそうです。
個人的には、捧げる範囲を少しずつでも広くしていくことが大切と考えておりましたが、著者は「一人の人に捧げられる人は、国にも必ず捧げられます。」、「本当に家族を愛する人は、国がもし戦争をした場合は家族を捨てることになる場合もありうるのです。国のために死ぬことになりますが、そういう事実が人類的な文学などを生み出している。」とありました。広さよりも深さの問題なのかもしれません。そういう意味では私の「捧げる」はまだまだ浅いのかなと思います。あと、ここにある「人類的な文学」というのは具体的にどの作品なのか、是非とも読んでみたいものです。
この「捧げる」ということが、「生命の完全燃焼」であるとありました。「生命というのは完全燃焼するか、燻ったまま死ぬかの違いしかない。私は完全燃焼した生命は大成功の生命であり、燻った生命はそれこそ社会的地位がどうであれ、腐った生命だと思っています。燃焼した生命は、若くして死のうが、歳をとろうが、挫折しようが、どんなに貧乏で死のうが、やったことが全部駄目であろうが、価値のある美しい生命なのです。」とありました。この捉え方は非常に難しいですが、稲盛塾長は「生まれた時より少しでもマシな人間になるために努力する」とか「魂を磨く」というお話をされています。「マシな人間になる」ことと「魂を磨く」というところは同義で良いかと思いますが、少しでも磨いてきれいになっていれば、それは完全燃焼したで良いのではないかと思います。肉体は滅びるが、魂は受け継がれていくと言いますが、受け継ぐときに完全燃焼していないと「お前、ちょっと燻ってるじゃないか」なんてお叱りを受けてしまうのかもしれません。
完全燃焼すれば結果は問わないので、最終的に犯罪者であっても完全燃焼していれば正しい生命だったと著者は言います。犯罪者を擁護するわけではありませんが、最終的に犯罪になってしまったとしても、それが何かに捧げた結果であればよいということなのかもしれません。
まだまだ続きます。
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