悲願へ 第二部 12
続きです。
「愛とは、自分の生命を何ものかに捧げる行為ですから、自分の命は無いものとなるのです。そういう意味で私は武士道が大好きなのですが、武士道を愛の根源的な文化だと思っています。武士道に邁進して生きると、愛が肚に落ちてくる。愛が分かると「問答無用」という生き方が出来るようになり、すべての出来事に『体当たり』をすることが可能となってくるのです。」とありました。卑近な例ですが、人間に限らず母親が子供を守ろうという姿勢には「問答無用」なところがあると思います。逆に言うと、そうした「問答無用」とも言えるような姿勢にならなければ、愛が分かっていない、いや、愛の対象になり得ていない、また、捧げ切れていないということになるのかなと思いました。
「体当たり」ですが、とにかく全身全霊でぶつかるということで、先の予定とか、細かい仕事の締切とかそうしたことを脇に置いて、全力を注ぐということかなと思います。この「体当たり」と「問答無用」の思想について、著者はほかの著書にも色々と書いてきたそうですが、皆がそれを難しいというのだそうです。しかし、著者は「難しい」というのは「逃げ」だと喝破します。愛の本質を理解してしまうと、実行しなければならないから、「難しい」が逃げ口上になってしまうのでしょうが、ただ、実際にどう実行するべきかというのは非常に難しいと思います。愛があっても無くても人間は必ず死ぬのですが、全く愛がなく死ぬのは「塵芥(ごみ)と同じ」とありました。これは強烈な表現ですね。どんな人でも、完全燃焼しているわけではなくとも、少しでも愛に触れた経験はあるのだと思います。でも、著者の行っていることがそういうことなのか、はたまた別な意味があるのかまでは読み取ることができておりません。
最後に、「国自体が平和ボケ」、「国そのものが、国民の欲望を喚起して物を買わせ、『あれをやりたい、これもやりたい、あれを買いたい、これも買いたい』という我利我利亡者の国民を作り上げている。」、「国民を飼い慣らされた家畜にしようとしている。」と国の姿勢を痛烈に批判していました。議員数人程度の野党でも、こうしたことを言ってくれる政治家がいればよいと思うのですが、政治の世界のどこからもこうしたことは聞こえて来ませんね。でも、昨今は五公五民なんていう税負担で、国民の所得も上がらずに厳しい生活を強いられているかと思いますが、もしかしたら、先述した著者のような考え方で、国民に清貧であれというメッセージを送っているのかも、、、そんなわけないですね。
ここまでで講演は終わり、次回からは質疑応答に移ります。