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親子丼を美味しく食べることができるか。
僕は出来立ての温かい親子丼に七味を少しかけて一気に食べるのが大好きです。
そして思いました
元気な親鳥の体の一部と、その子供が産まれる前の卵の内容物で作った料理を 親子丼 と名付けた当時の誰かのネーミングセンスに少し笑えます。
昔からひよこはピヨピヨとかわいいのに、卵を使ったケーキやオムライスを美味しく食べる自分がなんとなく不思議な気分でした。
それらを生命あるものとしてではなく、解体加工された時点で食料品として見ているから忌避感は少ないのでしょうか。
フライドチキンや、刺身、スクランブルエッグ、シラスの踊り食い、白子、牛タン焼肉など、「※人間バージョン」と書かれていたらどんな見た目になるか想像すると命がリアルに感じられて恐ろしい事になります。
縁日で出会った金魚はペットとしてとてもかわいいですが、海で苦労して釣ったカレイは煮付けにしたらとても美味しいです。
命を頂くとはどういうことでしょう。
地球の生態系の中で強者である人間のエゴが関係することは間違いないでしょう。
他の命を頂いて生きる人間だからこそ、命の価値について常に考えなければいけない気がします。
僕は狩猟をして、エゾシカを撃って食べます。
可哀想とはあまり思いませんが、命に感謝する気持ちはいつもあります。
人には原始の時代から培われた獲物を獲りたい猟欲があるのだと思います。
魚を食べる時も可能な限りキレイに食べますが、皆がそうするべきとは思っていません。
人間の都合で食べるのですから、人間の都合良く食べて、余れば捨てても良いと思います。
だからこそ人類には、命を頂くその業を背負って生きて欲しいと思います。
仏教用語で自業自得と言いますが、自分の行いの結果は自分が受けるということです。
動物に限らず、昆虫や植物にも命があるものです。
いつも悪いとは思いますが、自分のエゴで家に入る蚊を潰し、キレイな花を刈り取り壁に飾ったりもします。
植物も自分と同じように生きているのだと野菜を育てて観察して感じているのにです。
雨がふり、自然に育った美味しい果実が人に限らず虫やキツネや鳥達に食べられますが、生き物たちも命が尽きれば塵となって地球の一部へ還元されます。
大きな地球のエコシステムで循環しているのです。
それは突き詰めて考えると、空気中の酸素や人が生み出した工業製品などの無機物も含めて、あらゆる物質は同じ地球を構成する仲間だといえます。
そう考えると、腐った食品に発生する謎のカビ達や、朽ちる建造物など、あらゆるものが愛おしく、その儚さが美しく感じられます。
冗談ではなく、ふとした瞬間、例えば、
電柱が真っ直ぐ建っている風景をみて、それまで積み重なって培われた人類の技術に感動したり、
ロマネスコというブロッコリーの仲間の野菜の形の規則性に全身の毛穴が開くほど感動したりします。
雷の音に人智を超えた自然の力に畏怖感を覚えた時も、年々変わる地元の町並みに侘び寂びを感じた時も同じように感傷的になります。
話が逸れてきましたが、つまり言いたいのは、特異な極論を色々と述べてますが、これらは普通の日常に感動することができる1人の人間の感想です。
ビーガンの方に怒られそうですが、動物の胎児は植物の果実に相当すると考えられます。
甘いフルーツが大好きなのですが、もし植物が話せたら子供である果実を収穫する人類に何て言うのでしょうね。
焼肉屋で食べられる味噌ホルモンを見ながら、かつてはそこに牛の糞が詰まっており、腸の内壁のヒダになっている柔毛ごと美味しく食べているという事実にいつも複雑な心境になります。
結局人は美味しければあれこれ理由をつけてなんでも食べてしまうのですよね。
弱肉強食が織り込まれた自然のエコシステムをただ享受するのではなく、常に糧になってくれた生命に感謝し想いを馳せて生活したいものです。
自分勝手でごめんなさい、せめて血肉となるよう感謝して食べます。
とか考えながら今日も親子丼を食べてます。