目的はしあわせ、目標は超人
お金が欲しいとか、パートナーが欲しいとか、すべては詰まるところしあわせのための手段ですよね?
いろんな人たち、過去のわたしも含めて、手段が目的であると勘違いの不しあわせです。
しあわせがパーセンテージで測れるものなのかは分かりませんが、現在のわたしは、それなりにしあわせみたいです。
ヒャクパーと言えないのは、それは、外の世界があまりにお粗末だから。
でも、まぁ、時間の問題でしょう。
キリストさんもホトケさんも、人々の幸せを意図していたことに異論はありませんよね?
要は、彼らは彼らの教えを、人々が全て理解し、やがて自分たちを越えていくことを意図していたに違いありません。
そんな世の中がもう目前のような、そう思えてなりません。
年半ほど前、福岡市美術館で、とある団体の写真展がありまして、どの作品もとっても良かったのですが、そのメンバーと少しお話ししたら、「わたしはまだまだです」だの、「先生には敵いません」だのスッパタの平氣でぬかすんですよ。
わたしは高校2年生の時に、すでに美術の先生の技術は超えていたんですけど。
その師匠の名刺をいただいたら、何とか協会とかなんとか、ずらっと並んでいてあきれました。
有り体に言えば、虎の威を借る狐、感性は素晴らしいのにもったいない。
わたしはこの投稿で何が言いたかったんだっけ?
そうそう、この世界は自分が中心なんじゃないのか?と言うことですよ。
死ぬ前にキリストさんもホトケさんも、自分のものにできなくて一生を終えるって、わたしは嫌ですね。
もちろんわたしは、IQなど人並みですし、難しい本とかちんぷんかんぷんですが、頭脳よりかハートでしょう。
魂ってものがどんなものか、はっきりわかっているわけではないので、本とか今月買いました。
本などが拠り所です。
なんだか世の中、魂を持っていない「人もどき」が実際にいるらしいので、本当にそんなことってあるのかどうか確かめたくて學んでいます。
仏教のお経って、7000近くあるそうですね?
ホトケさんは、それなりの人に対しては、それなりの言葉でもって己が教えをお話ししたということなので、7000のすべてのお経を読まなくても良いのでしょう。
そもそもお経を坊さんが繰り返し唱えるのって、何か意味があるんですかね?
インドの話言葉を当て字で書いているような書物をヤマトの人にわからないような言葉で持って延々唸るなんて、どう考えてもおかしい。
葬式なんかで、そんな無駄な言葉を黙って聞いてじっとしているとか、漫画家の蛭子なんとかじゃなくても吹き出してしまいそうです。
袈裟の色で位を表すとか、お金を払って院号をつけてもらうとか、、、
弥勒菩薩が全部ひっくるめて踏み散らかしますよ!!
あぁすっきりしたバイ。
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