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列王記下5:1-27 前編:ナアマン

はじめに


この章は大きくわけて2つのストーリーから神の示す信仰を受け入れ、従う事の大切さを学べます。

1つ目は
重い皮膚病に悩む、誇り高い異教徒ナアマンが、病を癒されて、謙虚に主に仕える者となった物語(今回はこちらです。)

2つ目は
主の預言者であるエリシャに仕える身でありながら、真の信仰を示さず、主への感謝を着服しようとしたゲハジの物語です。

この二人の主に対する信仰の相違を通して、主の救いと恵みが、自動的に主の民に表されるのではなく、また異邦人や異教徒に及ばないのでもなく、主は自由にイスラエルを超え、全地の神として、その救いの支配を表されるお方であることがわかります。

ナアマンも選ばれた者

ナアマンが「主君に重んじられ、気に入られていた」理由を、「主がかつて彼を用いアラムに勝利を与えられたからである」と書き記し。イスラエルの敵で、異教国アラムの軍司令官(将軍に当たると考えられます)であるナアマンを、イスラエルの神ヤハウエが用いてアラムに勝利を与える、という事実を語ることにより、神の支配と導きがすでにエリシャとの出会いに先立ちナアマンに表され、ヤハウエは全ての戦いの勝利を導かれる神で、イスラエル以外にも勝利を与える神であり、全地の主であることを明らかにしています。


異教徒であり、イスラエルの敵でもあるナアマンも神様の選ばれた器であり勇士でした。
その彼が「重い皮膚病(ツァラアト)を患っていた」事実を同時に報告し、彼が神の憐れみを必要とする人間であることを指し示しています。

神様による、憐れみの準備

憐れみの準備は 戦いでイスラエルの地から捕虜とされた一人の少女が彼の妻の召し使いにされていることによってなされています。彼女はナアマンの妻(女主人)に、エリシャの存在を伝え、イスラエルの預言者である彼によって、主人ナアマンの病を癒してもらうよう進言します。ナアマンは彼女の言葉をアラムの王に伝え、王は、彼にイスラエルの預言者の所に行く許可を与えるだけでなく、イスラエルの王に手紙を送るという厚い待遇をします。
ナアマンは、アラムにとってとても重要な人物だったことがわかります。

イスラエルの王は不信仰

ナアマンは王の寛大な扱いを受け「銀十キカル(約340キロ)、金六千シェケル(約68キロ)、着替えの服十着を携えて」、アラムの王が書いた手紙を持ってイスラエルの王のもとを訪れます。
アラムの王の考えからすれば、ナアマンの皮膚病を癒し得るような預言者は、当然王の宮廷に召抱えられ、王のために働く存在であるはずですから、その手紙は王に特別な便宜を図るよう期待するという内容となります。

裏を返せば

”先の戦争に勝利しイスラエルを支配下においているアラムの王は、この要望が聞かれないなら、イスラエルを攻め、完全に抑圧支配する口実を得られることになる。”

言いがかりをつける為に、手紙は書かれたのではないか?

イスラエルの王はそう考えます。
あまりの出来事にイスラエルの王は衣を引き裂き慌てる様子が7節に記されています。

何故ならばアラムの王にまで知られている預言者エリシャの存在を、イスラエルの王は知らなかったからです。

イスラエルの王は、主の預言者に聞く習慣を持たない、いたずらに心を騒がせる不信仰な人間であることが此処でわかります。

神様に対するエリシャの信頼

エリシャはイスラエルの王が衣を裂いて、悲しみと嘆きを表したことを聞き、王がなぜそのような行動を取ったか、人を遣わして尋ね、ナアマンを自分のところに来させるよう伝えます。そうすれば彼はイスラエルに預言者がいることを知るようになると語り(8節)、エリシャは主の召しに対する揺るぎない確信を表わしています。

傲慢な異教徒ナアマン

ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立ちました(9節)。ナアマンは馬上から、自分の皮膚病の癒しをエリシャに要望しました。

恐らく彼は、癒しを求めていてもイスラエルを支配するアラムの軍司令官 イスラエルの預言者に馬をおりて頭を下げることなどできない。そう推察します。

ナアマンの怒り

エリシャは、使いの者をやって、「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」(10節)とナアマンに告げます。

ナウマンは激怒して
「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。
ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」

魔術や呪いのあるような異教で生きてきたナウマンにとって、魔術的なしぐさ一つ示さない、この預言者の命令はどう考えても納得がいかなかったのでしょう。そして、ナウマンは軍の司令官です。直接言うのではなく、使いの者に託けをするだけという事にも腹を立てたかもしれません。

ナウマンにとって、「ヨルダン川に行って七回あなたの身を洗いなさい。」という命令も、祖国ダマスコを流れる清い川を知っている彼には、なぜヨルダン川でなければならないか、合点が行かなかった事でしょう。

自分の病を癒してもらいたい、とわざわざやって来ているのに、預言者らしい宗教的なしぐさ一つせず、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。」と命じるエリシャの行為は、自分を辱める行為とナウマンは受け取ったのです。

僕に諌められる

憤慨して帰途につくナウマンに、
「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」

ナウマンの僕(家来)が考えを諌め、翻意を促します。ナウマンは素晴らしい従者にも恵まれていますね。

純粋な信仰

そこでナウマンは、思い直しエリシャの言葉、つまり主の御言葉を信じ従います。

「ヨルダン川に行って七回あなたの身を洗いなさい。」非常に単純な命令です。

繰り返し身を浸し、洗う中で、神はその病を癒す変化の兆しを、その度毎に与えられたなら、確信は与えられ易かったことでしょう。

しかし、一度、二度、三度、四度と繰り返しても、一向に病が良くなる兆しが現れなえれば、疑いの心が芽生え、信仰が揺らぎます。その揺らぐ思いを断ち切って、七度繰り返すことは、純粋な信仰が無ければ出来ません。

「七」という数字は、完全を表します。信仰の完全な従順、癒しの完全を表しています。

完全な信仰によって癒される

「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。」(新共同訳)

そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。(新改訳2017)

神様は完全な信仰の服従を示したナアマンを完全に癒されました。

信仰の告白

ナアマンは随行者のすべてを連れてエリシャのところに引き返し、馬上から降りエリシャの前に立ち
「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。」
という信仰の告白をしました。
アラムは異教の地ですから随行している全ての者は異教徒と考えられます。その中で「イスラエルの神様以外は存在しない」と敵国の軍司令官が宣言した事になります。この告白によって、彼は主なるヤハウエは、イスラエルのみならず全地の神であることを証し、他の全ての神々は偽ものであることを明らかにしました。

癒されたのは神様です

そして
「どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」
と常識でははかれない量のお礼の品を贈ろうとします。

しかしエリシャは
「私が仕えている主は生きておられます。私は決して受け取りません。」
と言い受け取りを拒みます。
それでもナアマンは、受け取らせようとしてしきりに勧めますが、エリシャは断ります。

ここでエリシャは、命令を直接与えたのが自分(エリシャ)であるとしても、ナアマンを癒したのは自分ではなく、生ける主(神様)の働きによる。だから栄光は主に帰されるべきで、それを自分が受け取るべきでない。とエリシャはナアマンに伝えています。

困難な決断を下したナアマン


「それなら、どうか二頭のらばに載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、主以外のほかの神々に全焼のささげ物やいけにえを献げません。
どうか、主が次のことについてしもべをお赦しくださいますように。私の主君がリンモン(リモン)の神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモン(リモン)の神殿でひれ伏します。私がリンモン(リモン)の神殿でひれ伏すとき、どうか、主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように。(17〜18節)といって、エリシャに許可を求めます。

「土」欲したのは、その「土」がエリシャを訪問し、主の救いをそこで経験した喜びを想起させるものとして、その「土」を持ち帰りたいと願ったのだと思います。

ナアマンは、「しもべはこれからはもう、主以外のほかの神々に全焼のささげ物やいけにえを献げません。」と決意をし言葉に表しています。

しかし、ナアマンは異国 それもイスラエルを制圧している国の王に仕える僕です。このまま国を捨ててイスラエルに残るという選択もあったことでしょう。国に戻れば異教の神や偶像崇拝を強要され、もしイスラエルの神様を信仰していることが分かれば迫害され命の危険もあるかもしれません。

国を捨てれば 一族に害が及ぶかも知れない。
しかし、神様への信仰は絶対。このような苦悩に立たされたナアマンの切なる願いが18節の「主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように。」に込められています。

その思いを汲み取りエリシャは
「安心して行きなさい。」と伝え

ナアマンはエリシャのもとから離れて行きます。(19節)

※今回の記事を作成するにあたり、文章のわかり易さの観点から新共同訳と新改訳2017を併用しております。また、筆者である私は牧師でも宣教師でもない いち信徒です。
誤りなどもあると存じますので、参考までにおとどめください。

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