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列王記下5:1-27 後編:ゲハジ

前回に続き、列王記下5:1ー27より書かせていただきます。

ゲハジの背信

ナアマンがエリシャと別れて少し行った時、ゲハジがナアマンの後を追って行きます。それは、

「わたしの主人は、あのアラム人ナアマンが持って来たものを何も受け取らずに帰してしまった。主は生きておられる。彼を追いかけて何かもらってこよう」新共同訳 20節より

という強欲な下心から出た行動です。
異教徒であったナアマンが改宗し、異教世界に戻ってどのように信仰の神礼拝と信仰を守るか苦闘しているのに対し、主に仕えるつとめを持つゲハジが主を恐れず、自分の私服を肥やし、罪を犯そうとしている姿がわかります。

そして、エリシャと同じように ゲハジは「主は生きておられる。」と口で主に栄光を帰しながらも邪な自己利益に走り背信をしてしまうのです。

ナアマンとゲハジ

ナアマンは後を追いかけてやってきた従者ゲハジを主に仕える者であると認めているので、敬意を払い、「戦車から飛び降り」、丁重に接しています。エリシャの前で高慢に振舞っていたナアマンの姿はここには見られません。

ゲハジは、「わたしの主人がわたしを遣わしてこう言いました。『今し方預言者の仲間の若い者が二人エフライムの山地から着いた。彼らに銀一キカルと着替えの服二着を与えてほしい。』」と言って、それらのものをナアマンから騙し取ろうとします。これに対して ナアマンは、「どうぞ、二キカル取ってください」と言って、二つの袋に銀二キカルを詰め、着替えの服二着を添えて、自分の従者二人に渡した、といわれています。

エリシャの心は誤魔化せない

ゲハジはこれらのものを受け取り、自分の家に隠しますが、エリシャは、ゲハジに「お前はどこに行っていたのか」と問います。
「僕はどこにも行っていません」といって白を切るゲハジに、エリシャは、「あの人が戦車から降りて引き返し、お前を迎えたとき、わたしの心がそこに行っていなかったとでも言うのか。今は銀を受け、衣服、オリーブの木やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受け取る時であろうか。」といって、その行為を非難しています。


預言者の心はその背信現場を透視する驚くべき力をもちます。この異邦人の救いという神の驚くべき恵みが表されている「今は銀を受け、衣服、オリーブの木やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受け取る時であろうか。」とゲハジに悔い改めと猛省を促しています。

ゲハジはその罪のゆえに、ナアマンの皮膚病を移され、自身と子孫に引き受けねばならないものとなった主の裁きを聞かねばならなくなります。そしてそれが現実となり、ゲハジは重い皮膚病を患って、エリシャの前から立ち去りました。


おわりに

この章は、一方で、異教徒ナアマンの劇的な回心とその真実な信仰を通して、主なるヤハウエは全地の主としてその救いを、どこにおいても、どのようにしても、なし得るお方であることを示しています。

もう一方で、主に仕える者の富の誘惑に負ける背信を語り、救いが自動的に与えられるものでないことを示し、慰めと警告を語ります。そして異教世界の中で生きねばならない信仰者の課題と可能性を示してくれます。

人をおごらせることなく、信仰へ導かれる主の救いの確かさ見る事が大切です。信仰の問題としては、一見優しく思える主の救いの招きに、素直になかなか聞けない原因として、自分のもつイメージでそれはおかしいと退ける人間の高慢と愚かさがわかります。

神が示す単純素朴な信仰の線を受け入れ、それに聞き、従うことの大切である事を教えられる章です。

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