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分け隔てしてはならない

ヤコブの手紙から本日は書いていきます。少し前に書いた内容に少し近いかもしれません。

わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。 また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか。 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

ヤコブの手紙 2:1‭-‬13 新共同訳

ヤコブは1章で、国外に散っているユダヤ人クリスチャンに対して、さまざまな試練に会うとき、それをこの上もない喜びと思いなさいと勧めました。

なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になることができるからです。

神はそのために御言葉によって、私たちを新しくしてくださいました。ですから、人間的には不可能であっても、神の御霊によって忍耐することができます。

大切なのは御言葉を聞くだけでなく、それを実行することです。(ヤコブの手紙2章14-26参照)

その御言葉の実践の一つとして勧められていることが、人を『分け隔てしてはならない』ということです。

聖書はこのような態度を一貫して非難しています。

 あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。

レビ記 19:15 新共同訳

ここでは単に強い者にへつらうだけでなく、弱い者におもねることも戒められています。

おもねるとは、気に入られるようにふるまうという意味ですが、強い者にペコペコするだけでなく、弱い者に気に入られるようにふるまうこともよくないというのです。

弱い者であっても、正しく接するようにと教えています。それは神が公義であられるからです。

つまり、神を信じて歩む者にも公平さが求められているわけです。

人を差別してはいけない、偏見を抱いたり、依怙贔屓をしてはいけないということです。

なぜ『依怙贔屓』をしてはいけないのか?

わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。

ヤコブの手紙 2:1‭ 新共同訳

ここでヤコブは主イエス・キリストのことを「栄光に満ちた主イエス・キリスト」と言っています。神の栄光は、神の幕屋に満ち(出エジプト記 40:34‭-‬38)、イエスがこの地上に生まれた時、その栄光は主イエスに宿りました(ヨハネによる福音書 1:14)。

雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。 モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。 雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。 雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。 旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。

出エジプト記 40:34‭-‬38 新共同訳

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

ヨハネによる福音書 1:14 新共同訳

そして、主イエスを信じるすべての人に神の御霊が注がれたことによって、主イエスを信じるすべてのクリスチャンにこの神の栄光が宿るようになりました。(コリントの信徒への手紙一 6:19)

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

コリントの信徒への手紙一 6:19 新共同訳

神は、こんなに罪に汚れた者を赦してくださり約束を実現してくださいました。私たちは主イエス・キリストを信じる信仰によって神の栄光を持つ者となりました。

ですから、もはや『人の栄光や物質』、あるいは『富の栄光』といったものは色褪せてしまいます。

立派な服装だとか、指輪の有無を含めてどんな指輪をしているか。お金持ちであるかどうかといったことは、どうでもいいことです。

そういう理由で人を差別してはいけないのです。

具体的な譬え

あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

ヤコブの手紙 2:2‭-‬4 新共同訳

2節から4節でヤコブは、『分け隔てる』つまり『依怙贔屓をする』とはどういうことなのかを具体的な譬え話で説明しています。

まず、当時のクリスチャンも一緒に集まって礼拝していたことが『あなたがたの集まり』の部分でわかります。

そこには、色々な人がやって来ます。たとえ譬話では裕福な人と貧乏な人が書かれています。

裕福な人は金の指輪をはめ、立派な服装をしています。当時、指輪をたくさんはめていることが、その人のステータスになっていたそうです。

彼らは自分たちが富んでいるという印象を与えるために並々ならぬ努力をしていたのですね。そのため、中には指輪を借りてきてはめている人もいたそうです。

勿論いっぽうで、集まりには貧しい人もやって来ます。貧しい人は他に着る着物もあまり持っていないので、見窄らしい(みすぼらしい)身なりをし、宝石などで飾ることもできません。

"その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。"

この当時の集会や初期の頃の教会でも問題になったからこそ、ヤコブは手紙にしたためたのでしょう。

奴隷制度もあり主人が奴隷と同じ席に座るなどありえない時代です。その奴隷が主人を指導するとなれば尚の事ですね。

極めて貧しい人の中に裕福な人が回心者として加えられたら『特別に席を設けたい。』そのような誘惑に陥ったのでしょう。

権力者や裕福な者が教会や集まりを援助するといったことも多々あったようです。

司式者にとっては非常に具合が悪いということは、容易に想像することがつきます。

しかし、集会や教会は主イエス・キリストが臨在しておられるところであり イエス様の前には格付けや身分や名声といった一切の別け隔てはありません。

たとえ現実的にそのような問題があっても、教会は一切の社会的差別が取り除かれたただ一つの場所です。

さばかれても致し方ないような私達が救われたのですから、そこにあるのはただ神の恵みだけです。この神の栄光の前には、人の功績や価値の分け隔てといったものは何もないのです。

そして教会や集会は神を信じて歩む者の集まりです。個である私達にも同様にしなさいと聖書では語っています。

主が私を通し大胆に書き綴らせて頂けたことを信じ感謝いたします。すべての栄光と感謝を主イエスの御名を通し御返しいたします。

アァメン

※私が主日礼拝や聖書勉強会で学び、メモをとり、ノートにまとめた内容を清書しています。そのため間違っていることもあるかと存じますのでご了承ください。



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