分け隔てしてはならない
ヤコブの手紙から本日は書いていきます。少し前に書いた内容に少し近いかもしれません。
ヤコブは1章で、国外に散っているユダヤ人クリスチャンに対して、さまざまな試練に会うとき、それをこの上もない喜びと思いなさいと勧めました。
なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になることができるからです。
神はそのために御言葉によって、私たちを新しくしてくださいました。ですから、人間的には不可能であっても、神の御霊によって忍耐することができます。
大切なのは御言葉を聞くだけでなく、それを実行することです。(ヤコブの手紙2章14-26参照)
その御言葉の実践の一つとして勧められていることが、人を『分け隔てしてはならない』ということです。
聖書はこのような態度を一貫して非難しています。
ここでは単に強い者にへつらうだけでなく、弱い者におもねることも戒められています。
おもねるとは、気に入られるようにふるまうという意味ですが、強い者にペコペコするだけでなく、弱い者に気に入られるようにふるまうこともよくないというのです。
弱い者であっても、正しく接するようにと教えています。それは神が公義であられるからです。
つまり、神を信じて歩む者にも公平さが求められているわけです。
人を差別してはいけない、偏見を抱いたり、依怙贔屓をしてはいけないということです。
なぜ『依怙贔屓』をしてはいけないのか?
ここでヤコブは主イエス・キリストのことを「栄光に満ちた主イエス・キリスト」と言っています。神の栄光は、神の幕屋に満ち(出エジプト記 40:34-38)、イエスがこの地上に生まれた時、その栄光は主イエスに宿りました(ヨハネによる福音書 1:14)。
そして、主イエスを信じるすべての人に神の御霊が注がれたことによって、主イエスを信じるすべてのクリスチャンにこの神の栄光が宿るようになりました。(コリントの信徒への手紙一 6:19)
神は、こんなに罪に汚れた者を赦してくださり約束を実現してくださいました。私たちは主イエス・キリストを信じる信仰によって神の栄光を持つ者となりました。
ですから、もはや『人の栄光や物質』、あるいは『富の栄光』といったものは色褪せてしまいます。
立派な服装だとか、指輪の有無を含めてどんな指輪をしているか。お金持ちであるかどうかといったことは、どうでもいいことです。
そういう理由で人を差別してはいけないのです。
具体的な譬え
2節から4節でヤコブは、『分け隔てる』つまり『依怙贔屓をする』とはどういうことなのかを具体的な譬え話で説明しています。
まず、当時のクリスチャンも一緒に集まって礼拝していたことが『あなたがたの集まり』の部分でわかります。
そこには、色々な人がやって来ます。たとえ譬話では裕福な人と貧乏な人が書かれています。
裕福な人は金の指輪をはめ、立派な服装をしています。当時、指輪をたくさんはめていることが、その人のステータスになっていたそうです。
彼らは自分たちが富んでいるという印象を与えるために並々ならぬ努力をしていたのですね。そのため、中には指輪を借りてきてはめている人もいたそうです。
勿論いっぽうで、集まりには貧しい人もやって来ます。貧しい人は他に着る着物もあまり持っていないので、見窄らしい(みすぼらしい)身なりをし、宝石などで飾ることもできません。
"その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。"
この当時の集会や初期の頃の教会でも問題になったからこそ、ヤコブは手紙にしたためたのでしょう。
奴隷制度もあり主人が奴隷と同じ席に座るなどありえない時代です。その奴隷が主人を指導するとなれば尚の事ですね。
極めて貧しい人の中に裕福な人が回心者として加えられたら『特別に席を設けたい。』そのような誘惑に陥ったのでしょう。
権力者や裕福な者が教会や集まりを援助するといったことも多々あったようです。
司式者にとっては非常に具合が悪いということは、容易に想像することがつきます。
しかし、集会や教会は主イエス・キリストが臨在しておられるところであり イエス様の前には格付けや身分や名声といった一切の別け隔てはありません。
たとえ現実的にそのような問題があっても、教会は一切の社会的差別が取り除かれたただ一つの場所です。
さばかれても致し方ないような私達が救われたのですから、そこにあるのはただ神の恵みだけです。この神の栄光の前には、人の功績や価値の分け隔てといったものは何もないのです。
そして教会や集会は神を信じて歩む者の集まりです。個である私達にも同様にしなさいと聖書では語っています。
主が私を通し大胆に書き綴らせて頂けたことを信じ感謝いたします。すべての栄光と感謝を主イエスの御名を通し御返しいたします。
アァメン
※私が主日礼拝や聖書勉強会で学び、メモをとり、ノートにまとめた内容を清書しています。そのため間違っていることもあるかと存じますのでご了承ください。