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なんで潰れなかったのか自分でも分からない、大学生からカフェを経営してきた話

僕は大学4年生の夏に、静岡市内でオーガニック抹茶のカフェを開業しました。

出身は福岡県で、大学進学をきっかけに静岡に移住していたので、親のつながりなどは一切ない、本当にゼロからのスタートでした。

さらには、カフェでのバイト経験も全くのゼロで、そんな僕がカフェを開業し経営するということは、まさしく『苦難の連続』でした。

今回はそんな僕が抹茶カフェを開業してからこれまでの歩みとその中で得た経験と失敗をお話していきます。

最後まで読むころには、あなたの心が少し軽くなり、人生における失敗との向き合い方により明確で前向きなとらえ方ができるようになると思います。

開業する前からすでに失敗の連続

(以前の記事で書いた部分と少し重複しますが、お付き合いください)僕は大学3年生の1月、5か月間のアメリカ留学を終えて、日本に帰ってきました。

そこから抹茶カフェの開業準備に向けて動き始め、様々なご縁を通じて『和み』を開業するに至りました。

開業したいと思ったとき、最初は『茶Matcha』(チャマッチャ)という名前で開業しようとしていました。

当時の意図としては『大学生がやってる店というイメージは安売りにつながりそうだから、大学生感は出したくない』という意味もあって、しかし、かわいい店名のほうが受け入れられやすいだろう、ということを考えていました。

身近な後輩に芸術分野に長けている女の子がいたので、その子にお願いして、ロゴも作ってもらっていました。(画像データがあったので、当時考えていたロゴを載せます)

(開業前に考えていた『茶Matcha』のロゴ)

かわいらしいロゴにしていたのですが、当時場所を提供していただく街づくりをやられている会社の社長さんから、同じ町の中に似たようなロゴのお店があるから、これはちょっと変えてもらったほうがいいかも。というお話になり『大学生がやるんだし、大学生カフェとかにしたほうがいいんじゃない?』というご意見をいただき、店名を練り直そう、ということになりました。

また、トレーラー(エンジンはついていないキッチンカーみたいな)での開業になるということで、大学生がやるというイメージも合うということでした。

そこで、『大学生カフェ』を枕詞として添えて、その珍しさを売ってみる、ということに方針を大きく転換しました。あとは『大学生カフェ○○』の後半部分、つまり名前を考えるということになりました。

今回はよりコンセプトを込めた、子供の名前のように、多くの人から親しみを持って読んでもらえて、僕の想いの詰まった店名にしたい、ということで当時協力してもらっていた仲間たちと一緒に考えていきました。

その中で僕が大切にしたかった想いは『日本らしさ』『人と人のつながり』『覚えやすい3文字、4文字』『和名』の4つのポイントでした。『ツナグ』や『ツナガリ』のような直接的なワードから始まったブレストも煮詰まっていきます。
そして、ついに、運命のアイディアが飛び出してきました。

「『和み』っていいんじゃない?」

その瞬間にそれまでも『なんとなくいいな』と思っていた意見を全て超える、月並みに言うと『ビビッときた』というやつです(笑)

こうして、現在の店名にも残る『和み』が誕生し、『大学生カフェ和み』としての開業へと邁進していくのでした。

カフェのバイト経験もない僕は、場所を提供していただく会社のご提案で最初から街中でやるのではなく、まずは大学の近くで”修行期間”としてプレオープンをするということでした。

大学の近くで開業するにあたって、1か所大学生がよく通る場所にある飲食店の駐車場が広かったので、そこに交渉をしに行きました。店長さんとオーナーさんは快諾してくれて、おかせてもらえる運びになりました。

そして、トレーラーをその場所で設置作業を進めていた当日、そこの地主さんの息子さんが『又貸しは法律で禁止されているからここでやらないで』と作業の中止を求めてきました。

僕としては店長さんに許可を取って、地主さんにも確認しておく、と言われていたの、想定外の事態に困惑しました。

トレーラーを持って帰ってもらうとまた運ぶための手間をかけてしまうので、近くのお世話になっていた飲食店経営者さんの駐車場に停めさせてもらいました。(急な事態に動転していて、連絡せずに停めていたので怒られました)

この時も、その時に停めさせてもらった飲食店経営者の方が、コロナの影響もあってお店を閉店していて解約まで期間が空いている、ということでそのお店の前の駐車場を使って販売を開始させてもらえました。

『大学生カフェ和み』として、そして僕自身としての開業日は2020年8月27日でした。「大学生が経営する抹茶カフェ」という売り文句に、抹茶ラテや抹茶イチゴラテなど個性を出したメニューを用意して開始しました。

しかし、この売り文句を使う決断はこの先の僕のカフェ経営における大きな課題を残す諸刃の刃になりましたが、それは先の話。

大学生が経営するカフェという罠

コロナ禍ということもあり、こうして行動を起こす学生は珍しかった時代、SNSを使ってカフェを繁盛させよう、と僕は考えていました。

そのために、とにかくインスタグラムの勉強と『マーケティング』を勉強しました。カフェ経験がなく職人として未熟ならば、売り方を学んでそこで勝負するしかない、という判断でした。

その効果もあってか、大学の近くとはいえ、大学生の帰宅経路には全くかぶっていない場所で何とか毎日数人のお客様を呼ぶことができました。

当初の1日当たりの売り上げは多い時で1万円程度、少ない時だと3000円か、それ以下の日もありました。当時抹茶ラテ1杯450円~という値段設定ということもあり、数を売ってもなかなか利益は出ない状況でした。

ここは完全なる経験不足と商売力のなさが露呈していましたね(笑)

しかし、そんな大学付近での営業ですごくうれしかったことは力を貸してくれる後輩や友達が周りにいたことです。インスタで拡散してくれたり、実家のケーキ屋さんのシフォンケーキを卸してくれたり。

そして、後輩の一人K君は『給料いらないので働かせてください』なんて言ってきてくれて、この大学付近の期間一緒に働いてくれていました。

暇な時間には一緒にマーケティングの勉強のための動画を見たり、将来のことや価値観について語り合っていたことが今でも懐かしく感じます。

そんな期間を一緒に過ごしていると、そのK君が『たかひこさんの話を聞いていて、僕も飲食店を作りたくなりました!大学の近くに居酒屋を作ります!』

こうして2020年8月27日から開始して続けていたある日『そろそろ街中に移動してくるか』というご提案をいただいて、急遽同年10月13日に大学付近での営業を終了することを決めました。

あの場所で始めて、お客さんとして来てくれて、自分でもカフェとしてドリンクを売れて買ってくれる人がいたことが今の僕の経営の原体験ともいえる期間だったかもしれません。

開業当初のキッチントレーラーの様子

そして、街中に移動して、改めて保健所の許可の取り直し、及び、大学付近での営業で見えた課題解決のための改善と、店構えの準備で1か月ほどたって11月18日、静岡市葵区の人宿町で同じトレーラーを使用して営業を再開しました。

ここである事実と向き合うことになります。『あれ、卒業まであと5か月しかないじゃんww』ということです。いや、笑っていられませんね(笑)

なぜなら、『大学生で経営するカフェ』で売ってしまっているんです。当の本人はあと5か月で卒業。当たり前かもしれませんが、こんな出来立てホヤホヤのカフェを引き継げる存在もいませんでした。

そしてさらに僕の計画はあまりにも見立ての甘いものでした。自分は就職して、副業としてカフェのオーナーをやろう、なんてことを考えていたのです。

当時、アメリカ留学時代に日本企業から内定をもらっていたので、早々に就活を終えていた僕は内定者研修を自分の事業のために断るというなんともわがままな内定者だったと思います。(人事さんにも自分がカフェを開業したことを伝えていて、小売りの会社だったので、内定者研修に来なくても似たようなことだから、ということで免除してもらっていました)

そんな状況だったのもあり、とりあえず後継者候補を探さなくては!ということで、インスタを通じて街づくりの活動の一環として協力したい学生を募ってみました。

するとありがたいことに、5名もの学生さんが興味を持ってくれました。実際に少ない売り上げから渡せるだけの金額を渡しながらバイトのような形で雇って継いでくれる人が生まれるか、頑張っていました。

まあ、しかし、人を雇い、育てるということができるほど『デキた人間』ではなかったので、価値観の不一致や、学生さん本人の意思がほかの対象に移ってしまうことなどもあり、後継者が生まれることはありませんでした。

結局『継がせよう』という僕のプレッシャーのようなものもあったのでしょう、店を継ぎたいという人は現れず、店を手伝ってもらったりしていた学生さんたちもそれぞれの方向を目指していくことになり、店の運営は結局自分1人でやることになりました。

自分の中でも『やはり僕が店を経営していくしかない』と心に決めた瞬間でした。そして2020年年末へと向かっていく12月の中旬。

『もう僕は就職しない』

意思が固まり、しかし、これまで育ててもらった親には説明する必要があるだろう、ということで母親に電話しました。(父親は自営業ということもあり、僕の人生に対して反対することはないというのがわかっていたので)

すると意外なことにも母親から『そうしたいなら、そうしたほうがいいとおもうよ。ただし、一旦年末に実家に帰ってきたときに直接説明してからにしなさい。そして、事業をするならうまくいかなかったときのためのタイムリミットを決めなさい』と言われました。

約22年、僕を育て上げた母親です。僕が強情で1度やると言い出したら聞かないことをわかっていたのでしょう。そして、その時にもう一つ新たな事実を知りました『お母さんも就職浪人していたから、新卒で入らないといけないとは思ってないよ』と。

やはり血は争えないものだな。そう感じました。

こうして、年末家族でも(一人っ子なので両親だけですが)改めて報告して、2021年1月中旬には内定先に内定辞退の連絡をして、ついに退路は断たれました。もちろん未だに店名は『大学生カフェ和み』です。

いつまで大学生カフェやってるの??

2021年2月トレーラーを置いていた軒先のある建物が、新しい飲食施設の開発に伴い、取り壊しになることになり、3月の頭までお休みすることになりました。

そして、取り壊しが済み、建設開始まで更地になった場所での営業を再開していました。

2021年3月コロナ禍の簡素な卒業式が行われ、当日は両親も静岡に来てくれて、静岡を案内する流れです。

簡素な卒業式、その上アメリカ留学以来ほとんどの同級生とは1度も会う機会もなく、仕事に熱中していたため当日もなんだか冷めた雰囲気になってしまっていました。

そのうえ、卒業式当日もお店を開けるということにしていたので、卒業式に向かうまでお店を開店して、親にもドリンクを買ってもらう時間を作ったりしてから卒業式に向かいました。

卒業式自体も各自名前を呼ばれて証書を受け取ったら各自解散、というものだったので、同級生との挨拶もそこそこにすぐに身支度を整えてカフェの営業再開となっていました。

そして、この日から僕は正式に『大学生ではなくなった』のです。

ここで問題が浮き彫りになります。『大学生カフェ』に立っている人間は『社会人』という最大にしてシンプルな矛盾です。

周りも当時は『大学生が始めたカフェ』として受け入れてもらえていましたが、だんだん時間が経つにつれて僕自身が『これって結構まずいんじゃないか?』となってきていました。

事実『大学生がやってるんですか?』ということを聞かれることも多々ありましたし、そうではないということを説明するたびに少し騙しているような気にもなっていました。

そんな時にトレーラを営業していた更地に工事が始まるということで2021年5月2度目の休業と場所の移動を余儀なくされました。今回も同じ土地の中で、場所を奥に移すというものでした。(正直なところ、路面からは工事している脇を通り抜けるため行きづらさMAXでした笑)

当時の写真(左奥に見えるのが営業していたトレーラー)

この写真に見えるのぼりには『大学生カフェ和み』と書いてあります。そしてここで6月から1か月ほど営業していたものの、やはり工事の状況としてここで続けることも難しい、ということになりました。

その後はテナントが空いていた近くの店舗で間借り営業のような形で1か月ほど続けているときに、場所を提供していただいている会社の社長さんから『どうする?まだカフェ続けたい?』と聞かれました。

答えはもちろん『イエス』でしたが、それまでにも度重なる休業と場所の変更をしていて、精神的に苦しい時期になってきていたのも事実でした。

そして、続けたい意思を汲んでもらって、新しい場所を用意してもらうことになりました。今回は空き家になっていた路地裏の2階建ての2階部分を改装してカフェにする、というものでした。

内装の段階から相談させてもらえて、カフェの内装づくりの雰囲気を味わうことができました。当時は、カフェの内装に対する自分の確固たるイメージがなく、概ねお任せする方針で内装をデザインしてもらって、ライトや床材などを選ぶ形でやらせてもらいました。

路地裏の店舗の内観

そうして2021年10月路地裏の2階部分の改装が終わり、未改修の奥の部屋と
外装やテラス部分をDIYで解決する、という状態まで作ってもらいました。

そこからは1か月間、移転のための休業期間に入り、店内のインテリアを買いに愛知(IKEA)まで行ったり、日々壁やテラスを塗る作業に明け暮れる日々でした。

インスタお客様にもご協力を呼び掛けて、色塗りなどを手伝ってもらったりDIYのお手伝いをしてもらったりもしました。

そんな日々を抜けて2021年11月ついに路地裏2階の店舗での営業を開始しました。予算の都合もあり、奥の元リビング部分は一旦放置でスタッフスペースとして徐々に改装を進めていくことにしました。

この店舗に移るときにすでに『大学生カフェ』としての名前も変えなければいけないと思っていたので、移転の際に『Cafe & Bar 和み』として、昼と夜の2部制で営業を再開することにしました。

どんなカフェになりたいんだっけ??

さて『Cafe & Bar 和み』として営業を再開したわけでしたが、如何せん路地裏の2階。入店のハードルはとても高く、その上突然の移転を繰り返していたこともあり、辞めた、と思われることも多かったので、なかなか定着することができず、ほぼゼロからのスタートでした。

路地裏の店舗の完成図

SNSもこれまで通り頑張りつつ、営業時間を夜にも増やし、昼のランチも作っていくことで、何とか売り上げを伸ばそうという形になりました。

この時の1日の売り上げはほぼゼロに近い日もあり、正直言ってまともに続けていけるかわからない状況でした。

そんな折、2022年に差し掛かるときに人生で初めての銀行からの融資を受けることにしました。名目としては『運転資金』でした。

当時、カフェの移転に際して買ったインテリアや装飾、外壁のペンキなどへの出費が大きく、貯金も底を突きかけていて、貯金残高が4桁になるときもありました(笑)

そんな状況もあり、営業を続けていくためにもまずは『体力』が必要だ、ということで日本政策金融公庫へ。

希望金額は300万円。特に根拠はなかったのですが、このくらいあればいろいろできそう。という感覚程度でした。

とにかく起業したならお金の1つや2つ借りてみないことにはわからないことも多いだろう、使わなくても返済の実績づくりになるだろう、という感覚で申し込んでいました。

実際にその時に融資として降りた額は150万円。当時若干22歳の僕にとっては銀行残高に突如1,500,000円の表記があることは感覚を狂わせます。

この時に営業電話で店にかかってきた電話で某有名全国女性誌の広告ページへの掲載営業が来ました。

150万円を運転資金として手にしてしまっていた僕には、この広告の営業を『チャンス』ととらえてしまっていたのでした。(今となっては静岡の小さな店舗が全国の”雑誌”に載せることに意味などないことを説き伏せてやりたいくらいです(笑))

その広告費は15万円。決して安い金額ではありませんでした。お金を持つときに必要な力は適切な判断力ですが、この時の判断力はそれに見合っていません。

結局広告枠を購入してしまい、広告効果は何も得られず…(笑)

そんな判断力ですから、お金の使い方もへたくそで、すぐに150万円も使い切ってしまいそうな勢いでした。

そんな時、2022年4月『しずおか祭り』という静岡を代表するお祭りに遊びに行ったときに、ここで開業の時にお会いしていた経営者の方と再開することになり、思いっきり泣くという恥ずかしい思い出を思い出すとともに、その時に言われたことの重みを改めて感じていると、

『もう始めてから2年くらいたつでしょ?大変さわかってきたでしょ(笑)相談しにおいでよ』と優しいお言葉をかけてもらい、すぐに後日連絡をして相談する時間をいただきました。

そして、開業以来のカフェに関する相談。初めて会った時よりも現実的な話をできるようになていることに自分の中で少し感動も覚えつつ、経営に関する相談を1時間ほどさせてもらっていました。

その時に『和み』としては何を売りにしたいの?

『抹茶?ラテアート?何を一番売りたい?』

と聞かれて『オーガニックの抹茶を使った商品です』と答えました。

すると、『今の店名だとそれが伝わらないよね、Cafe & Barじゃなくて抹茶カフェとか、オーガニック抹茶カフェとかにしたほうがいいんじゃない?』と言われ、『確かにその通りだ』となりました。

店の名前もまだまだ浸透する前だったので、すぐに店の名前の変更を決意。そして営業時間についても2部制にした結果夜の集客は難しく、2部に分けることで認知の難しさも感じていたため、通し営業の11:30~21:00にすることにしました。(ここから現在の”夜までやるスタイル”が確立していきました)

そして、ここで改めてカフェの目指すべき方向性を再認識しました。

『静岡の抹茶を世界へ』これがオーガニック抹茶カフェ和みとしてのビジョンになりました。

私、失敗しないので

こうして、紆余曲折ありながらもカフェとしての在り方を決定づけることができました。

ここに至るまでに約2年。2020年8月に大学生が開業した『大学生カフェ和み』が『Cafe & Bar 和み』を経由して『オーガニック抹茶カフェ和み』となるまで。

この過程には多くの迷いと困難と失敗がありました。

そんな中にも支え、応援してくれた周りの人の存在。苦しんでいた中で手を差し伸べてくれた周りの先輩方。理解し応援してくれた両親。

そんな多くの方々に支えられながら、変化を繰り返し、転がりまわって2年弱。方向性が決まった和みというカフェがここからどのように歩んでいき、現在に至るのか、そのお話はまた別の機会にまとめられたら、と思います。

失敗も過程になる。失敗は成功の母。

なんて言葉が世の中にはありますが、初めから『失敗するぞー!』なんて意気込む人はいません。『絶対に上手くいかせるぞ!俺ならできるぞ!』そんな確信や、傲慢から失敗は生まれ、そのたびに心を挫き、ダメージを受けます。

しかし、失敗したことであきらめることが一番悔しい。そんな負けず嫌いの僕の『意地』のようなもので続けてこられたのも事実だと思います。

僕にとっての失敗とは、『自信を”失”い、自らに”敗”れること』だと思っています。

そういう意味では僕はまだ失敗していないのかもしれません。そして、これからも失敗しない人生を歩んでいけるよう、たくさん挑戦して、砕けては立ち上がりそして成果をつかみ取る。

そんな人生を歩んでいきます。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

この記事を読んだあなたにとって、人生におけるとらえ方に少しでも心が軽くなり、少し視野が広がる。そんなきっかけになれたらうれしいです。

また次回の記事でもお会いしましょう。ではまた。

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