ポエトリーブックジャムの感想と、そこから引き出された何か
ポエトリーのイベントに参加するのは、2018年のUPJ6以来です。
自分は2018年の後半、とにかくきつかった。
父親はアル中で発狂、母親はてんかんで倒れ、自分はトラウマで、食欲も性欲も落ちて、あんまり眠れない、何かをしていないと、気持ちが暗くなっていく。
このままだと、実家で潰れてしまう。実家を脱出しなくてはならない。だけど、自分が持っているリソースは、無に等しく、大学も中退だし、社会人経験もない。資格もスキルもない。絶望的な気分でした。
よすがにしていたのは、ものづくりです。何かしらの新人賞等をとって、何かしらの肩書きが欲しい、と思っていました。そうすればフリーターでも許されるのではないかと。(これは今でも思っている)
そんな時期、逃避するようにUPJ6を観に行きました。
自分は、詩のことが分からないが、出演者のパフォーマンスの感想を、ひとりひとり、逐一、ノートに記述していきました。
ドロドロの中、何かを手探りでつかまえようとしていて、それでもつかめなくて、そんな思い出です。
今回も観にいく途中は、少しふらふらしていました。
最近は理由もなく、もやもやしています。人と喋っている瞬間は楽しいけど、そのあと、不安になる。
電車に乗りながら、植本一子「家族最後の日」を読んでいたら、自殺した義弟(ECDの弟)のことが書かれていました。
自殺した義弟と、その親父に関するエピソードを読んでいたら、自分と死んだ父親のことを照らし合わせて考えてしまって、タイミング悪く、天候が豪雨に変わり、風が急に冷たくなりました。
自分は、半袖Tシャツに、ステテコ、サンダル、IKEAのバッグ(おおよそ街に出る格好ではない)といった格好だったので、肌寒い、超バッド。
ただ、イベントを観覧して、とても爽やかな気分になりました。オープンマイクの抽選が外れちゃったのは残念だったけど、むかで屋さんや、佐藤さんと会えて嬉しかったし、鳥居さんのパフォーマンスが前に見た時より怖くなくて、すごく良いなと思った。
自分には、このくらいの感想しか書けません。
自分は詩の内容を全く理解していないし。
理解しようともしていない気がする。
ヴァレリー研究で有名な伊藤亜沙さんは、美学のことを「感じる学問」だといっていたけれど、自分は感じることが出来ているのかすら、疑問です。
それでも、癒された気がしました。
客席からステージを見ているあいだ。
自分は、気が散って、ほとんどパフォーマンスを見ておらず、周囲を見渡したり、別のことを考えたりしていました。そのあいだ、スマートフォンをいじることもせず、ただただ、ひとりになっていました。自分には、その時間が「とても大事な時間だなー」と思いました。
余談ですが、「高橋さんって今こんな感じになっていたのかー」という、在野の、素人の、月並みな感想があります。本当に月並みですいません。
自分は、チャットモンチーの熱心なファンじゃ、無かったのでした。
自分が、チャットモンチーを知ったのはNACK5のラジオ番組です。オナニーと、違法ダウンロードと、ジョギングぐらいしか、やることがなかった高校3年生の夏休みのこと。
確か、「ハナノユメ」を聞いて「凄いバンドだ!」と思った。(違法ダウンロードした「sakusaku」で知ったのかもしれない)
ただ、ラジオ番組を知ったのが、最終回の3回前だったため、楽曲を好きになったものの、アーティストのパーソナルは、あまり知ることがなく、(最終回に橋本さんが、くるりの「男の子と女の子」を流していたぐらいの記憶しかない)、それ以降は、つかず、はなれず、耳に入ってきたものを聞く、ぐらいの感じで。
なので、今、こうして、高橋さんを近くで見て、見る機会を得て、人生ってわからないものじゃのう、と思うのでした。
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