「日々の公演2」レポートその5
第五回
失敗作宣言
五回目まで書いて気づいたが、この文章はレポートとして失敗している。
だけど、自分は結局こういう気持ち悪い文章しか書けない。「なぜ自分は気持ち悪い文章を書いてしまうのか?(あるいは自分の書く文章は何故気持ち悪くなってしまうのか?)」という、問いを立てることは出来る。
その理由を知るには書き続けなければならない。
書き続けて、文章が溜まったとき、初めて問いに答えるための「資源」が出来る。分析はそれからだ。
なのでレポートに進む。
2月26日(土)
東京の気温 15/3
東京の新規感染者数 1万1562人
役者役13人(代役5人)/観客役1人
生西さん 鈴木さん
ロシアのウクライナ侵攻がはじまった。
自分は(自分でいうのもヘンだけど)「倫理観」が狂っているのか、ウクライナ侵攻のニュースに、あまり切迫感を持てなかった。
Twitterや、知人たちの反応を見ていると、みんな不安になったり、落ち込んだりしていた。自分は、それを眺め、「へえ…。もうちょっと中東について勉強してみっかな」ぐらいだった。
(素人診断だが)、「PTSD」、(と、呼ばれるような症状が出ること)が、自分にもある。そして、それが人生に大きな影響を及ぼしたこともある。だけど、ウクライナ侵攻は、それがトリガーとなって、PTSDが発症する事はなかった。
ワークショップの話に入ろう。
5回目の「日々の公演2」、トピック2つ。
1つは、生西さんから「コンビニのレジ袋に、何か(大事なものを)入れて持ってきて欲しい」と指示があったこと。
生西さんは、前回までの公演を観ながら、2020年に起きた「渋谷ホームレス殺人事件」を思い出したらしい。
自分は、この事件のことを知らなかった。だけど、「ビッグ エー」のレジ袋に、畳んだ段ボールと、スポーツ新聞を入れて持っていった。
段ボールは、いざとなった時、野宿に使えるかなと思ったからだ。スポーツ新聞は、性風俗の体験談が読みたくて買った。残念ながらエロ記事は載っていなかった。
2つ目のトピックは、代役の演者さんが5人きたことだ。
5回目は代役の人数が欠席者を上回った!(1人2役の回はあったけど、2人1役になった回はこの時だけだ)
2人1役を担当することになった演者さんは、ひとりが、背後霊のように隣に立って、ひとりの役のセリフを復唱していた。これが、謎のインパクトを生み、「なんか面白い」と、ワークショップ内でバズった。
この日の現場には、高橋と何回かお会いした事がある人、高橋とは「はじめまして」の人が入り混じったていた。
高橋は、はじめましての人に、こちらから話しかけるくせがある。
直子(母)によると、幼稚園のころからそうだったらしい。その割にコミュ力が低いので、話しかけたあと、どのようにコミュニュケーションしていいか分からなくなり、挙動不審になるのだが、この日は、その感覚がメチャクチャあった。
ワークショップは前回と同じく、本読みからはじまった。2周目の本読みで、生西さんは「セリフを発話する時、誰に向けて言っているかを意識してくれますか?」と言っていた。
その後、演者は「横一列」(前回参照)に並んでリハーサルをした。本番の舞台に向けて、細かいことを決めていった。(例えば「レジ袋は右手に持つ」など)
棒立ちで移動なしの演技は難しかった。一応「舞台上で何をしてもいいよ」という事ではあったけど、あんまり、おかしな動きは出来ない。
その一因として「こちらから客席(というか、生西さんと鈴木さん)が、めちゃくちゃよく見える」からだ。
なにしろせまい。
演者は、観客の誰がどういう目つきで、何を見ているのかが、見えてしまう。(逆に、観客サイドから見ると、12人並んでいる迫力がすごかったらしい。なにしろせまい)
立ち位置としては「乗車率100%の電車に立って並んでいる」みたいな感じだった。
そんな中、演者は「会話らしきこと」を繰り広げていった。演者同士は、横位置なので顔を見ることが出来ないし、動きをとることも出来ない。(動作する位しか出来ない)
その代わりに「決められたセリフ」があって、「それを言うこと」が決まっている。
自分は、他の演劇を体験したことがないので比較することは出来ないけど、おそらく、イリーガルな演劇ではあった、と思う。
代役の人たちも、少し戸惑っていた。(気がする)なにしろ台本のうち、半分くらいは役者への当て書きなのだ。代役の演者も半分くらいは、モデルになった人物を知らない。台本を読んで、「その人」の雰囲気を解釈して演じねばならない、、という、、、、
それでも何回か繰り返していくうちに「いい感じ」になっていくのが感じられた。(この「いい感じ」という感覚を共有出来るのが不思議だった)
そしてリハーサルの後半、演者がいっせいに「ビニール袋を落とす」という演出が加えられた。
だが、演出に関して小さなディスカッションが巻き起こった。この演劇に「明からさまな作為/演出を盛り込んでよいものか?」という問いかけだった。
自分は、演劇もアートも分からない。
感受性が弱いので、作品の「良し/悪し」が分からない。何を見ても、「面白いか、面白くないか(好きか、好きじゃないか)」でしか判断する。(なので、ほとんどのアート作品を見ても「つまんね」と思うけど、我慢して見ている)
自分の中に、「良し/悪し」の軸がないので、偉い人が「面白い」と言っているもの、追従するカタチで評価をする。だから、自分の感覚を大事にしている人を尊敬する。自分も「そうなりたい」と思って、なるべく素朴に作品に接する。
でも、製作者・演者サイドにいくと、「面白い」や「好き」の感覚判断能力が鈍ってしまう。
自分は「演ってる自分は楽しいけど、他者(絶対的な他者)から見たらどうなんだろう?」みたいな問いを、つねに持っていたいと思う。その問いを手離すのが怖い。
グループのレクリエーションになると、さらにわからなくなる。作り手空間で、褒めあったり、反省しあっているうちに、感覚が迷子になる。自分はワークショップ(という、ある種の閉鎖空間)に通っているうちに、何が面白くて、何がつまらないのか、ますます分からなくなっていた。
(そのこと自体の「良し/悪し」は未だわからない)
代役の演者さんが入ることで、ちょっとだけ、外からの視点が入ってきた。それは、嬉しいことだった。だけど、何故か論破しようとしてしまった。恥ずかしい。論破なんてくだらない人間がやることだ。
そんなこんなで本番をむかえた。
演目は、三回目から引き続き、「演出」「四季」の2本。それプラス新たなシーン。
追加された演目は「うたう」「シャトルラン(仮)」の2本。「うたう」は、鈴木さんが考えた歌詞に、自分と、もう1人の演者(役)さんの2人が、即興でメロディーをつけて歌う。
「シャトルラン(仮)」は、兄と妹の物語。1度、軽く練習をしたが、本番では演らなかった。
「うたう」は、歌をつくるみたいに演ったら、たくさん褒めてもらえて嬉しかった。(いつも演ってることなので、ちょっと照れくさかった)「うたう」シーンに関していえば、1番最初がベストアクトだった気さえする。
公演は、観客役が1人。演者は13人。
なので、13対1である。感想としては、やはり2人1役のキャラの、インパクトが強かったみたいだ。
自分は、頭痛になる不安が高まっていたので、講評がはじまる前にバファリンを飲んだ。そしたら、講評中、少し気持ち悪くなってしまった。
講評では、エチュードの考え方をめぐって、生西さんと、鈴木さんの意見が少し割れていて面白かった。
自分は演劇ワークショップといえば「エチュードだ」と思っていたところがある。
以前、漫画教室に通っていた時に、クラスメイトが「映画美学校の山下敦弘のワークショップに行って、エチュードをやった」という話を聞いて、「なんて楽しそうなんだ!」と思ったことがあるし、、
斉藤哲也が編集した「イッセー尾形の人生コーチング」という本も好きで、それにも、「エチュード」みたいなことが書いてあった気がする。
だけど、「イッセー尾形の作り方」というDVDで森田さんのワークショップの映像を見たときに、本に書かれているワークショップの内容と、実際に行われているワークショップの映像が、結構かけ離れていて吃驚した記憶がある。森田さんのワークショップは、単純にエチュードをやっているわけではなく、演出家として、かなり介入していたし、再現性を高めて、芝居を作り込んでいた。
鈴木さんと、生西さんの、「エチュードに対する考え方の微妙なずれ」が、とてもやわらかい形で、表れていた気がする。
それは「イッセー尾形の作り方」と似ているような、似ていないような、不思議な空間で、それが良いか、悪いか、面白いか、面白くないかはわからない。やっているうちに、何かが書き換えられるような、ちょっとした何かだった。(第六回に続く)