「日々の公演2」レポートその2

第二回 2021年12月18日

役者役 10人/観客役2人
スタッフ 生西さん・鈴木さん

東京都の新規感染者数は664人。

最高気温 8.5℃
最低気温 1.7℃

この日は寒かった。

そして、この日は「M-1グランプリ2021」の放映日だった。(錦鯉が優勝)

そして、自分の33歳の誕生日でもあった。

思えば31歳の誕生日にはTwitterで、たくさん誕生日祝いリプがもらえた。自分は、それが結構ストレスだった。(丁度メンタルがやられている時期だったので、どう反応すればいいかわからなくなった)

33歳の誕生日は10人くらいの知り合いから「おめでとう」と言われた。「このぐらいなら、なんとか受け止められるかも知れないな」と思った。(同時に「誰からもお祝いされなかったら寂しいな…」という気持ちもあった)

誕生日とは関係ないけれど、ぼさぼさの髪を切った。

自分の髪は、キモいし、フケツなので、妹から「いつ切るの?」と注意されていて、自分でも髪がうざいから「切ったらどんなにスッキリするだろう」と思っていた。
だけど、床屋さんに払う1000円ちょっとが惜しくって切るのを躊躇っていた。しかし、いよいよ切りたくなったから近所のQB HOUSEに行って、マッシュボブ風にしてもらった。(本当はイジリー岡田みたいな髪型にしてもらいたかったのだが、理容師に上手く伝えられなかった)

ワークショップの当日、会場に着いたとき、「あ、可愛くなってる」と言われた。自分は一瞬「??」。ようやく髪を切ったのに、髪を切ったことを忘れる33歳(冬)だった。

ワークショップの内容のことを書く。

12月5日、2回目の公演の台本が生西さん経由で送られてきた。

劇の名前は「崖ぎわの群れ」。必要なキャストの人数は5人だったので、2つのチームに分けられた。キャスティングも、スケジュールも、かっちりと定められており、初回と比べると、やることが決まった状態(より正確にいうと「演者役の人たちが何をやるかがわかった状態」)でスタートした。

2回目のワークショップは、初回のワークショップよりも、ゆっくり時間が流れていた印象がある。まあ、記憶なんてあてにならないが。ゆっくりに感じたのは、やることが決まっていたから、なのかもしれない。

鈴木さんが、リハーサル中に「一生リハーサルやってられるなー!」と興奮していたのを覚えている。

芝居の中でも、ゆっくりとした時間が流れていた。自分は長台詞が覚えられなくって、恥ずかしいやら、申し訳ないやらであった。

自分が所属する、グループ(1)は、前回と同じく、ファシリしをてくれる人がいたので、寄りかからせてもらった。

リハーサル、楽しかった。

日頃、「腹がよじれるほど笑う」という経験はあんまり無いけれど、この時(リハーサル中)は、面白くて笑いがこらえられなくなった。お芝居のモードに入っているときの緊張感とか、色々な力学が働くんだと思う。

終わってからも、思い出す度、ニマニマしていた。そんな事は、そうそうないことなので「なんて楽しいんだ!」と思った。(今となっては、なんであんなに面白かったのか分からないが)

自分が入っているグループ(1)の演出は、演出よりも演者に重心が置かれていたように思う。

初読では、「崖ぎわの群れ」という台本が、いまいちよく分からなかった。だけど、みんなで話していくうちに、少しずつ分かっているふうになった。だけど、細かいところの解釈は1人ひとり違っていて、演ってみると、演者ごとに「見えている景色が違うなあ」と意識せざるおえなかった。ちぐはぐな感じだった。

 グループ(1)のお芝居は、「解釈の統一」を部分的に放棄することで、演者対演者の芝居になっていた。即興的な要素が強かった。 そのおかげで、リハーサルでは、げらげら笑える軽薄なムードが漂っていた。

だが、本番の公演では全く笑いが起こらなかった。(ウラで、M1グランプリが放映されているってーのに!)
台本の持ち味であるところの、美しくも不穏な空気に飲まれてしまった。

グループ(1)の演劇を、実質、演出してくださっていた方は、「板の上で響きあうことを目指していた」と言っていた。その目論見は達成されていた気がする。でも自分は「演ってみたら、悪い意味でへんてこになってしまったなあ…」と内省していた。(あくまで自分は)

対してグループ(2)の演出は、台本のエッセンスを汲みながらも、独自の展開をしていた。「立ち位置」や「動作」、「気持ちの作り方」や「発話のテンション」を定めて、統制されたお芝居をしていた。(あくまで自分の印象です)

グループ(2)の公演は「流石…」というほかない。飛び道具的なアイテムも効果的に配置していたし、とても見やすいお芝居を作り上げていた。

自分は、グループ(1)の一員として、ちょっと敗北感を味わった!(勝ち負けじゃないのに)

その流れでなのか、講評も軽く白熱してしまった。(講評で喋りすぎると翌日不安になるヤマイがあるにも関わらず)

「対等な居場所」作りが流行っている。
それは自分の関心事項でもある。

「演出不在の芝居」と「円を作って意見を出し合う」座組みは、フラクタルな位相をなしており、どちらも「演劇ワークショップ」的なものの中に組み込まれている。

自分は元々不登校児だった。別に「いじめに遭った」とか、そういう明確な理由はない。「学校」というシステムがめんどくさくて、家族に甘えて、家に引きこもっていたのだ。加えて、地頭が悪いせいで勉強についていけなくなり、それで学校がいやになった。それだけのことだ。

その後、定時制→ニート→フリーターとなり、「恋人が欲しい」という欲望がむくむくと立ち上がり、街コン→オフ会→読書会→哲学対話と漂流しながら、少しずつ自分の居場所というか、人との付き合いかたを学んでいった気がする。

社会は、自分みたいな落ちこぼれにもやさしい。

社会は、よわき者、きもい者、ばかな者、そんな人たちでも生きられるように、セーフティ・ネットワークを広げながら、包摂していく。そのベクトルに向かって、ネジが巻かれ、より善き方向へと進歩していく。

とはいえ、主観的な問題として「他者に対する不安」が消えることはない。

トラブルを起こすのは、いつだって弱い人だ。(「マイノリティ」みたいな属性の問題ではなくて、社会的強者も、個人の持つ「弱さ」によってトラブルを引き起こす。もちろん自分も例外ではなく弱い)

だから「対等であれば良い」と思う一方で「対等であることの怖さ」もあるし、そもそも「本当の対等なんてない」とも思う。

表面上「対等な感じ」で包まれていても、(生産性という意味で)優れた人間/劣った人間という軸はある。その、どうしようもない次元の認知を「存在していない」かのようにふるまっていても、無いことには出来ない。そして、立場に関係なく、人間は誰でも「弱さ」を抱えて生きている。

ふわっとした包摂は、ふわっとした排除を覆いかくしてしまう。

なんで、そんな事を考えてしまったかというと、自分がネオリベ的な価値観を内面化しているせいなのかもしれない。

お芝居に勝ち負けはないけれど、どうしても勝ち負けで判断してしまったり、目先の「勝ち」をとろうとして、大枠を見失ってしまったりすることがある。(あるいは卑屈になって「あえて」負けようとしてしまう事がある)

これは自分が持つ弱さなのだろうか。それとも人間が持つ性質のようなものなのだろうか。この問いには、すぐに答えを出したくないし、出せないだろう。すこしずつ、ロングスパンで考えていきたい問題。(第三回に続く)

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