「身体」で読みなおす

この文章は、自分語りと広告の中間くらいの文章です。もともと、自分語りと宣伝の中間を目指して書いたので、そういうものとして読んでください。まあ、「成功といえば成功」「しっぱいといえばしっぱい」ってあんばいで、意欲的なじっけんがなされています。。

何を宣伝したいか。11月からPARA神保町で開講される『老子を「身体」で読みなおす』です。それって、いったいどういう事なんだ、と思っている人たちに向けて書きました。答えは出ませんでした。文章全体のはんぶん位が自分語りです。

わたしは2024年5月〜9月まで『中国古典を「身体」で読みなおす』(講師:岩渕貞太)を受けていました。「身体」で読む、が出来るようにはなりませんでしたが、ぼんやりと生きていくための必要なヒントを見つけられたような気がします。でも、身につけるところまではいかなかった。そもそも、そんな大事なことを半年ほどで身につけようだなんて虫のいい話!

では「身体」で読みなおすって、なんなんだ。講師の岩渕さんや、皆んなでお話をしたり、身体を動かすことで、「身体」で読むための読み方を学んだ気がするけど、言葉で説明するのがむずかしい。

老子を読む。老子の話を聞く。立ち上がる。身体を動かす。力を入れる。力を抜く。全然ちがうこと気づく。何がちがうのか探してみる。座る。そしてまた考える。わかったような、わからないような。そんなことを繰り返し、やる。
ふと気を抜くと、なんでこんな事をしてるんだろう、と思う。

いや、なんでこんな事をするんでしょうね人間。ふしぎ。「人による」としか言えないけど。自分に関して言えば、不安だからやっています。「おれは生きていることが不安で息苦しい。だから身体で読むが必要なんだ!」って、そこまで熱くなってはないけれど、思ったのです。



生きづらさを考える時に思い浮かべるのは父親のことです。

うちの父親は、青森県で生まれて、東京の大学を出て、永谷園に就職しました。永谷園で30年ほど働いて、2002年ころに、うつ病を発症しました。その後の父の人生は悲惨なもので、パチスロ、ネトウヨ、アルコール。結局、うつになって15年くらいで死にました。社会にも家庭にも居場所を見つけられずに死んでいった。

今はわかるのですが、社会に居場所がない人間は、タバコや、アルコール、ギャンブルに溺れる事で自分を保っている。今は、そう考えることで自分を納得させています。
だけど父が生きてる時は、そう思うことは出来ませんでした。自分は父親を許すことができなかった。

アル中になった父親から、強制的にお酒を取りあげて怒鳴られたり、「頼むからお酒をやめてお父さん」と泣きついたけど効果なし。いくら介入ををしても無駄でした。結局、依存症からの脱却は、外圧だけではなく、本人の自発性も必要なんだという、当たり前の事実の残酷さ。

自分は嫌われたくないし、死にたくないので、父親を反面教師にして、努力して、成功者になろうと思いました。だけど、努力しよう、努力しようと思っても、ずっと努力できない。つかれるし、なんか途中でめんどくさくなってしまう、あきらめてしまう。

ねっからのめんどくさがり屋だから、中学校にも半分しか通ってないし、大学にいたっては一年の半分しか通っていない。しかも、不安発作になるので行動範囲も限定されているので、まっとうな社会人にはなれませんでした。当人の努力不足によるものなので、負いも、責めも、受け入れるしかありません。

優生学っぽい、むずかしい言い方をすると、私たちは血族共同体にアイデンティティの何割かを託しているので「親がダメなら子もダメ」という因果関係を断ち切るのはむずかしいと思います。(そこに体重を乗せすぎると民族主義になって本当に未来がなくなるけど)

私も父親と同じように、皆んなから嫌われて、依存症になり、孤立して死んでいくでしょう。そのぐらいの想定はしているし、仕方ないことだと思ってあきらめている。
ダメな遺伝因子があるし、生育環境にも問題がある。何より「自助努力を放棄してきた」という決定的な原因もある。今は、くたばりぞこないの人間のボーナスタイムみたいな生。かといって悲観しているわけではない。現実的に考えるとそうなるってだけで。

もしかすると私という存在には自由意志なんかなくて、しょせん不幸な玉突き事故の結果でしかないのかもしれない。因果と因果をつむぐために存在している。そう思うこともあります。

否! 強烈な意志や努力によって、運命を乗り越ることが近代的自我のあり方だから、それを信じて努力するべきだ! そう思うこともあります。



いったい私は何を書いてるんですか。

この文章は、考えながら書いて、書きながら考えて、考えながら書いています。書くという行為は、ふしぎな事で、極端な方向に流されがちだ。私は、書くという行為によって、なんらかの「正解」を導きだそうとしているんだと思います。

わたし達人間(霊長類ヒト属ホモサピエンス)は、数千年単位で考えるとほとんど何も変化していない。一方、私たちが生きている社会はここ数百年だけでも、すっごい変化があった。例えばフランス革命とか。

わたし達は「社会」というものを意識して、色々なことを、たくさんの角度で考えるようになった。そのおかげで自由になったけど、不自由にもなった。そして身体への意識も変わってしまった。老子を読んで「全部そうだとも言えるし、全部ちがうとも言えるね」みたいな感覚になるのは、そういう事だと思う。

きっと思考という行為は、社会環境によってガチガチに規定されてしまうので、他の時代や、他の文化の感覚を想像するのって、実はそうとう難しい事なのではないか、と思う。

古典を読んで、無理やり「現代性がある」と言いはったり、プリミティブな「他者」を想像することは出来るけど、そんなものは単なるオリエンタリズムに過ぎない……。それがわるいとは言わないけど、他の方法もある。

老子のテクストを読むためには、意識から身体にさかのぼる作業がひつようになのだと思う。いくら社会が変化しても、身体だけはあんまり変化していないから、身体を使えば、違う時代や、違う世界を想像するための道のりが見えてくるのだ。

「身体」で読みなおすでは、岩渕さんの学んだ武術やダンスのかんたんな体操みたいなワークをする。身体知、というとありきたりだけど、身体の中に潜んだ能力を取り出すのは、手品を見せられるように、すこし不思議な感覚になる。

老子を読む、ワークをする、また老子を読む、ワークをする。わかるような、わからないような。っていうのを、なんかいか繰り返していくうちに、身体がスイッチする感覚がつかめるような。(気がする、つかめていないような気もする)それを「身体」で読みなおす、と言うのかはわからないけど、ちょっとだけ自分の世界観を揺さぶられるような、そんな体験ができる授業。

ほんの少しだけラクになる。本当にちょっとした技術なので、誰でも会得できそう。(ただ、本気で会得しようとしたら、それなりに訓練が必要なのかもしれない)自分は半年間受講して、少しだけ開けた気がする。この技術を身につければなんとかやっていけるな、と感じた。



わたしは父親のような愚かな人間になりたくはない。だけど、そのうち父親のような愚かな人間になって死ぬ。運命に逆うことが出来ず、孤立して死ぬ。それはまあ、しょうがない。そういうもんだ。社会的には死んでいるようなもんだし。
でも、そこそこ楽しく暮らしてもいる。ずっとこうはいかないんだろうけど、とりあえず今は楽しく暮らしてる。

父親は仕事や家庭が上手くいかなくて、うつ病になった。そして、仕事の代わりにパチスロに行くようになって家族全員から嫌われた。ネトウヨになり、最期はアル中で死んだ。つまらない因果関係の巡り合わせを引き受けてしまった。

おれは、人生つまずいても、くさったりしたくない。父親のように自分で自分をおとしめたりしない。人間はどんな状況にあっても、ハッピーになる方法はいくつもあって、それは思いついたら簡単に出来るもので。それはつまり、ほんのちょっとした気分転換みたいなことで。それがあれば死ぬまで楽しく生きていけるっていう、そういうものは、あるといいです。

だって私たちは、いつまでもつるつるの赤ちゃんのままの状態ではいられない。時間が経てば花は枯れるし、ペットは死ぬ。肌はでこぼこになるし、身体に残った傷跡が消えることはない。体力もどんどん落ちていくし、治らない病気をいくつもかけもちして、飲む薬の量がだんだん増えていく。それでも、いじけず、くさらずにいるひとは、赤ちゃんみたいに無条件に愛されている。だから、くさるのはよそう。自分で自分をおとしいれることは。

もしも、あなたが毎日「息苦しい」と思いながら生きているとしたら、『老子を「身体」で学ぶ』を受講することは決して無駄ではない。もしも、あなたがその気になれば、くさらずに生きていく為に必要な技術を身につけられるはずだから。それは、パチンと音を立てたとたんに、人生観がガラッと変わるような、そんな技術を身につけられるはず。

身体で読みなおすクラス

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