「日々の公演2」レポートその4
第四回
人から「こうすれば?」とアドバイスされるのが苦手だ。「放っといてくれよ!」って思う。もしくは「ちょっとだけ、誉めて欲しい…」と思う。そして、そんな自分も含めていやになる事がある。
自分は、あらゆるイニシエーションから逃げてきた。色んな人から甘やかされてきた。そのおかげで、肥大して傷つきやすい自己を獲得している。
米光さんのライター講座を受けていた時もそうだった。講座内で、文章を提出する宿題があったのだが、自分は毎回、宿題を提出するくせに、返却された答案を見ることが出来なかった。(赤ペンが入っているから)全部で10回提出したけど、結局1回も見れなかった。(米光さんゴメン、、)
自分の文章力が伸び悩んでいるのは、それが原因かもしれないし、全く関係ないかもしれない。
何をやってもだめ。
そもそも文章を書く力は伸びなかった、という可能性もある。ていうか「文章力」というものの正体が未だによくわからない。
自分の文章は、客観的に見てどのくらいなんだ?
伸び悩んでいるのか?!
そのレベルでわからない。
だから、文章力が伸び悩んでいることを反省しても仕方ない。わからないことすらも、わかっていない状態なんだから。
あるいは「文章力なんか存在しない=作文なんて自己満足でいいんだ」という考え方も出来なくはない。
そう考えるのが一番いいのかもしれない。
だけど自分は、お坊さんにも、芸術家にもなれない。どうしても「人から尊敬されたい」という、世俗的な欲望がある。金が欲しい。女を抱きたい。
なので、文章を書くのも、音楽を作るのも、女を抱く手段みたいなところある。(実際に抱けたことはない。抱かせてくれる女、連絡待ってるぜ。)
本当にさもしい。恥ずかしい限りである。
自分はちっぽけな存在だ。そんな自分を誇らしく思う。これがあるから、めんどくさかったり、しんどくても生きていける。
だけど、そんなチンケなプライドを守っているのは、本当にきもいことだとも思う。このきもさは人…(自分を含めて、人…)を傷つけるきもさだから、なるべく早めに克服した方がいい。
シチズンシップに沿って、人から何か言われても、くじけずに、変わり続ける身体を手に入れる事。それは大人としての責任なのではないだろうか、と、頭では理解りながらも、そうは問屋がおろさない。。
何よりも情けないのは、こうやって自分の弱さを綴ることによって「赦してくれ」と願っていることだ。このバブみに近い営みは、本当にいやしいと思う。
こうやって自虐をしていると、たまに哀しくなる。でも、自虐をすることで「自分の人生の主人公は、このおれだ!」という気分が味わえて、とても楽しいので、おすすめです。
2月12日(土)
東京の気温 10/0
東京の新規感染者数 1万1765人
役者役10人(代役1人)/観客役2人
生西さん 鈴木さん
と、ここまで読んでくれた人たち…。
「ありがとう&ごめんな」(という気持ちがある)
自分の面倒くさい自意識に付き合わせてしまって誠に申し訳ない。自分は、自我がどうかしちゃってるから、気を抜くと、ついつい矢印が自分に向かってしまう。(+これを書いているのは、ちょうど妹と諍いがあった時期であった)
くわえてレポートも四回目だし、ちょっと構成にテコ入れして「今回、一味ちがうかも…?」と思わせたい、そういう下心というか、思惑もありました。正直すまんかった…。
こっからはサクサク、レポしていく!!
読んでくれ!!!!
4回目の「日々の公演2」は、2月12日に行われた。
コロナ第6波は、ピークを迎えようとしていた。
今回も色々あって演者の人数が少なかった。(しかも前回と入れ替わりに参加した演者が多かった)
また個人的な事情になるが、自分は翌日、幕張の本屋lighthouseで、ライブをする事になっていた。なので、なるべく体力を温存しておきたかった。でもまあ、そんな都合よく体力を温存する事は出来なかった。
結果的には、翌日のライブも難なくこなせたし、新型コロナにも感染しなかった。自分が「体力…」と思ってしまうのは、「体力が持たなくなって、倒れちゃったらどうしよう…」という不安からくるものだ。
とはいえ、新型コロナが怖いことには変わらない。換気をしなければいけない。だけど、ドアを開けると風が入ってきて寒い。工事の音がうるさい。
「複数人で何かをする」ってことは、そういう「色々な事をすり合わせていく」ってことなんだな。と、ワークショップで、生西さん、鈴木さんの、場所作りを眺めながら、感じた。
公演では、前回と同じ台本を演った。
(「演出」と「四季」の2本。前回は「四季」のみだったけど、今回は「演出」と「四季」両方やった。)
生西さんが不在だった3回目は、観客(役)もおらず、ある種カーニヴァル的だったのだが、4回目は、適度に「秩序」が敷かれていた。
最初に本読みを3周くらいやった。
最初の本読みで、生西さんが介入して、「もうちょっと、こういう感じで演ることは出来ますか?」とリテイクする流れがあった。
本読みのあとは、動きも含めたリハーサルを2、3回繰り返した。基本、前回の演出を引き継ぎつつ、幾つかの段取りが追加された。
本番の公演も、その感じで行われた。
講評での評価は、ぼちぼちだった。(鈴木さんが1人2役演じていたので、ちょっと、わかりづらくなってしまったが、やむおえなかった)
自分は、「演ってる側としては、すっごく楽しかったんだけど、第三者からどう見えるんだ?」って事を、どうしても、意識してしまう。自分はつまるところ「あんまり上手くいかなかった感」を味わっていたのだと思う。
「この台本めっちゃ面白いのに、良さが伝わってないんでは?!」とか、そんな意図の発言をした気がする。
なので、演者が横一列に並ぶ陣形で、動きは無しで、テイク2の公演をする事になった。
(観客役には、そちらの方が見やすかったらしい、2回目ということもあるんだろうけど)
鈴木さんは「演る方は、どちらが楽しかった?」という事を気にしていた。自分は「自由に動き回る方が楽しいけれど、横一列でもいい」と言った。自由に動くのも、それはそれで大変だったし、「劇のクオリティを上げたい」という気持ちも、多少はあったのかもしれない。
他の演者は「立ったままの方が楽だ」という人もいれば「棒立ちはつらい」と言ってる人もいた。そして、「とりあえず次回は横一列に並んででやってみよう」という事が決まった。
書きながら、改めて変わったワークショップだなと思う。
われわれは、自由と強制のあいだに生きている。おそらく、大きな声で「嫌だ!」と言えば、中断することも出来るだろう。一方で、「誰かに従ったほうが楽に生きられる」という事もある。
横一列の座組みは「他の演者と目を合わせられないのが寂しい」と言っている人がいた。「それは確かにそうだなあ」と思った。
自由に動きまわっていた時とちがって、誰かに働きかけたり、働きかけを受けたりすることが出来ない。他の演者の表情すら見えないから、声を感じて、リアクションするしか出来ない。
横一列の陣形は、電車の座席の前にズラっと人が並んでいるみたいな陣形。とてもせまい。
自分は電車に乗るのが苦手だ。
人と一緒に乗るのもいやだけど、ひとりで乗るのもいやだ。それでも目的地に辿りつくためには、電車に乗るしかない。
フランクルの「夜と霧」に、「自分が人生に何を期待するかではなく、人生が自分に何を期待するか」っていう有名な言葉がある。「せまくて、不自由な空間で何かを演じる」のは、不自由の中で何が出来るかを模索するみたいな、そういう事なのかもしれない。まあ、大げさなんだけどな。
役を演じることで、自分の役割から離れることは出来る。だけど、自分の身体から離れることは出来ない。(第五回へ続く)