ひとりでできるもんの限界

しめちゃんへ

返事遅れてごめんなさい。

人生の足場の悪い岐路に立っていた。

人間視界やの手の届く範囲は元来定まったもので変えられないのだと、今回 よく思い知った。
でもそこから、手を広げていく為の四次元ポケット(仲介なイメージ)が発生することで、手広く仕事をしている人になれることを発見した、の だけど世界を股にかけるってこういう事なんだね、大変だと小さい机の上で感じたのだ。
それは自己犠牲が付き物で、コミュニケーションの大量発生。

できる人とできない人がそりゃ別れる。

自己を犠牲にするって、こんなにも辛く死んでしまいたいと思うものなのかと毎日思っていた。
睡眠時間も、食事も減らして何もかもを捧げる日々はある種の狂った信仰のようにもと思える。
ある場所の、覚えていない何処かでみた 「毎日辛いことの連続が自分のためになるならやり切った方がいい」という言葉、それに悪態をつきながら半額になった菓子パンをかじり、私は全てが終わった後になにかを得られるんだろうかと考えながら作ってきた。
完成した作品を壁にかけて、箒で展示会場を掃除していたときの力の抜け方を今も思い出す。
多分きっとこれはやれてよかったことなのかもしれない。書きながら「そうかぁ、これはこれで困ったな」とつぶやいている。

これが私の卒制。
大学の四年間の最後。

またみっともなく繰り返すのだきっと。

周りは一区切りついた途端にこれからの事を高らかに話す。速さが取り柄の現代、世の中。私はせめて終わった事を毎日密かに祝い続けよう。
毎日パーティと一人で菓子を食べていたら少し肥えたので戻さないとな。

将来は?と聞かれるとわからないけどクリスマスより暖かさがまじる気候になってきて、目まぐるしく変わることが確定した。
さらに暖かくなったとき、そこに圧倒的に変化した第二形態のような私はいないだろうけど、少しはラメがついてキラキラしているといいなぁ。

というわけで四月から上京する。
tokio city life
目の前の紫の霧が立ち込めるビル群に飛び込む気持ちでいる。
三月と四月はバチっと一旦区切られるものだろうと今まで生きてきたが、今日明日でいきなり区切りナイフが目の前に振り下ろされるかもしれないヒリヒリ感が今の日本にはある。
目に見えないウイルスと、手のひらを広げナイフを指の間に差しているような采配をする国 そして惑わされる私。
インドアの時間が増えることは得意なので大丈夫そう、進んで一人遊びをしていいわけでしょう?本を読んだり、ダンスをしたり、映画を見たりできる。

インドアの可能性を見せる時が来た。
これから新しい土地に行くとは思えない人間の一言で今回は終わりにしよう。
これからの方針として、自分の生活と文を見せる場を持とうかなと思ってる。これは夢になるのかな。
エッセイストってなんだろうな、どこにも属していないような風をみんな装っていてわからないや。

補足 3月頭に書いていますが私はまだここにいます。

りんより