「日教組誕生」秘話―「友好的な日本人」と占領軍の密通・黙契関係を実証的に解明
●「友好的日本人」と羽仁五郎
米陸軍情報部は1945年8月21日、「友好的な日本人」と題する極秘文書を作成し、GHQに協力することが期待される人物363名をリストアップし、“probably useful”、”possibly useful”という評価が付せられていた。
とりわけCIE(民間情報教育局)に積極的に働きかけたのは羽仁五郎であった。
羽仁は昭和20年12月1日に全日本教員組合(全教)を結成し、委員長に就任し、翌日に日本教育者組合(日教)が結成され、賀川豊彦が委員長に就任した。
いずれもGHQにとって「友好的日本人」であり、CIEは羽仁五郎を「社会史家、作家、左翼」と評し、「日本の教育の民主化という共通の目標」を実現する上で役に立つ人物と評価していた。
CIEは羽仁を中心とする教員組合の代表メンバーとの会合を重視し、「両者が関心を持つ教育問題」について「長期間にわたって討論」し「教員組合が成長していくこと」を望んでいた。
昭和21年3月18日の秘密会談(29頁に及ぶ会議録に“Confidential”と書かれた判が押されている)において、羽仁は次のように発言している。
羽仁はCIEが教員組合を援助するよう積極的に働きかけており、昭和21年1月22日の会合で、ニューゼントCIE局長と次のようなやり取りを行っている。
このような黙契関係は大日本教育会の佐野利器会長とCIEの間にも成立し、CIEは彼を利用して、教員組織を日本教育会から日教組に一大転換させた。
この「日教組誕生」という壮大なドラマの奥に隠されていた“秘話”を在米占領文書に基づいて明らかにしよう。
●日教組はいかにして誕生したかー在米占領文書の記録から
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