●日本昔話はウェルビーイングの宝庫
『むかしむかし あるところにウェルビーイングがありました 日本文化から読み解く幸せのカタチ』という本が、日本社会に根ざすウェルビーイングとは何かを考える上でとても興味深い。
その内容を抜粋しながら、髙橋塾がテーマとしている日本的ウェルビーイングについて述べたいと思う。
●日本昔話はウェルビーイングの宝庫
『まんが日本昔ばなし』はウェルビーイングの宝庫である。そのエンディングテーマである「人間っていいな」の歌詞には、日本的ウェルビーイングの原点が、「ごはん」「お家」「風呂」「布団で眠る」にあることを示している。
昔話には名前がないおじいさんとおばあさんが多数登場し、主人公の弱さや嫌な部分をあるがままに肯定し、成長しないという特徴がある。
弱い感情をほろっと描く達人である杉井ギザブロー監督の奇作『火男』は、「おじいさんは山へ芝刈りに…まぁ…あまり行きませんでした」と、弱さや嫌な部分をあるがままに肯定し、大酒飲みの男が主人公の『酒が足らんさけ』も始まりと同じゼロの地点へ戻る日本昔話の同じパターンの物語である。
語り継がれてきた日本の昔話には、欲や栄誉を手放すことによって福がもたらされ、ウェルビーイングが始まるという展開の物語が数多くある。例えば、有名な『笠地蔵』を取り上げてみよう。
大晦日の夜、貧しい老夫婦が正月を前にして餅がないことを嘆き、笠を売りに出かける。しかし、笠は一つも売れなかった。おじいさんは雪が降りしきる帰り道で頭に雪が積もったお地蔵さんをかわいそうに思い、笠をかぶせて手ぶらで帰宅する。その後、お地蔵さんたちがお礼の食料を運んで来てくれてめでたしめでたしでしたとなるわけであるが、予想外の食料を得られたことは、ここではあくまで結果論でしかない。
お地蔵さんたちが恩返しにやってこなくても、おじいさんとおばあさんは何の文句もなかったはずである。そうではなく、『笠地蔵』で最も語られるべきことは、貧乏で食べるものもないほどの老夫婦が、年末年始を乗り切るための唯一の原資を失っても良しとした、という点である。
●「否定を受容」してきた日本文化の特徴
「お~いお茶」というロングセラーの緑茶商品がある。
この商品のラベルには必ず俳句が載っているが、全体的に見ると否定を受容する俳句が非常に多い。
例えば、27歳の女性の応募作品で第25回新俳句大賞文部科学大臣賞を受賞した「プロポーズされそうなほど冬銀河」という俳句がある。
「プロポーズ」という期待を予感させる言葉から始まるにもかかわらず、「されそうなほど」と続き、最後は「冬銀河」で締めている。
つまり、実際にはプロポーズはされていないし、何も起きていないのである。
このような構造は日本を代表する歌人・藤原定家の次の和歌(『新古今和歌集』)にも共通している。
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
この和歌は「花も紅葉も」とまず華やかなイメージを展開しておきながら、「なかりけり」と打ち消し、最後は実際には目の前にわびしい風景しかないことを歌っている。
柔らかな余韻を残して、「だがそれでいいのだ」という諦念、日本人特有の美意識が垣間見られる。
このように「否定を受容」してきたのが日本文化の特徴といえる。
日本初の勅撰和歌集である『古今和歌集』には、満開の桜などを肯定的に讃える和歌が多いが、次第に桜は満開よりも散りかけが、祭りは最中より終わった後が良しとされるようになっていった。
このような精神性は今日の日本人にも受け継がれている。
こうした「nobodyとnegativeを愛でる」日本文化の「わびさび」の特徴は、松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」という俳句にも共通してみられる。
実際に見えているのは夏草だけで、今はもういない兵どもを愛おしむ精神性が日本的ウェルビーイングに繋がっているという(石川善樹・吉田尚記『むかしむかしウェルビーイングがありました』KADOKAWA)。
●日本的ウェルビーイングの原型は、人間関係の「間柄」の中に見出すことができる
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