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「生まれてこないほうが良かった」という思想について考える




●「反出生主義」と「生命の哲学」

「生まれてこないほうが良かった」という思想を「反出生主義」というが、『現代思想』令和元年11月号が特集「反出生主義を考える」を取り上げていて興味深い考察が行われている。平成29年にデイヴィット・ベネターの『生まれてこないほうが良かった』(すずさわ書店)が翻訳され、日本でも活発な論議が展開されてきた。

 同特集の冒頭で、『生まれてこないほうが良かったのか?一生命の哲学へ!』(筑摩選書、令和2年)を出版して、この「反出生主義」思想を徹底検証し、その超克を試みる「生命の哲学」を提唱している早稲田大学の森岡正博教授と関西外国語大学の戸谷洋志准教授が対談している。

 べネタ―の主張の核心は、人生の中に痛みがほんの一滴でもあっただけで、生まれてこない良さのほうが、生まれてきたよりも勝ってしまうという点にある。ベネターが提起した重要な問いは、「我々は一体どのような理由で新たな人間の命をこの世に生み出していいと言えるのか」という問いである。

 クィア理論の思想家のリー・エーデルマンによれば、右派と左派、保守層もリベラル層も子供を産むことを道徳的な行為として捉え、無条件に肯定する立場をとっているが、生殖をしないクィア※にとっては「暴力」の一つで、生殖を前提としない社会の在り方を模索していくべきだという。
※クィア理論(queer theory)とは、性的マイノリティの思想や文化・歴史を研究する分野であるクィア研究(クィア・スタディーズ)において構想され整理された思考の枠組み全般を指します




●ドラえもんの『僕の生まれた日』が示唆するもの

森岡は「生まれてこないほうが良かった」という思想は、自分だけでなく他人の喜びや幸福感をも巻き込む暴力性をはらんでいると指摘している。
その思想は、誰かが感じた喜びや幸せを、私の存在と一緒に無に帰してしまう思想だからだ。

その意味で、のび太が生まれた日に戻って、喜んでくれた父母がいたことに気付くというドラえもんの『僕の生まれた日』(平成14年)の以下の物語は示唆的である。

夏休みのある日、のび太が自分の誕生日にどんなプレゼントがもらえるんだろうとウキウキして家に帰ると、「また宿題していないでしょ」とお母さんから怒られてしまう。

のび太は家出をして、「僕なんか生まれてこないほうが良かったんだ」と叫びます。そこにドラえもんがやってきて、「のび太くん、タイムマシンで戻って、君が生まれた日がどうだったか見てみないかい」と提案し、二人はタイムマシンに乗って、母親がのび太を出産した日に遡ります。

そこでのび太は、両親が自分がうまれたことに歓喜している様子を見て、「ぼくは生まれてきても良かったんだ」と考えを改め、ハッピーエンドになる、という物語。


つまり、私にとって私は生まれてこないほうが良かった、ということと、私以外の誰かにとって私は生まれてきてもよかったということは両立しうるということだ。

そこで、森岡は「誕生肯定に至るにはどうすればいいか」を考え、生まれてきて本当に良かったと思えるにはどうすればいいかということを中心テーマにした「生命の哲学」を提唱するに至ったのである。




●太宰治『斜陽』とハーデガー『水子供養』

戸谷は、「生まれてこないほうが良かった」と思うことができる者こそが、他者への正義の可能性を開くために、翻って「生まれてきたほうが良い」という論理が成り立ち、出生主義と反出生主義という二項対立の構図そのものを崩していく可能性を秘めている、と指摘している。大否定の後に大肯定が生まれるからである。

「生まれてこないほうが良かった」と思う者と「生まれてきて良かった」と思う者は対立関係にあるのではなく、相互補完関係にあり、両者が関係を保ちつつ「違い」を活かし合って新たな「共活共創」社会を築き上げていく必要がある。

戦後の早い時期にも「生まれてこないほいうが良かった」という嘆きはよく聞かれた。
太宰治の『斜陽』(新潮社、昭和22年)には次の一節がある。

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①歴史教育、②家庭教育、③道徳教育、④日本的Well-Being教育の観点から、研究の最新情報や、課…

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