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続・昭和100年、終戦80年の節目に思うこと―国民意識について
●はじめに
「日本人は大和民族という単一民族である」とよく言われ、「日本人」であるという民族的同一性と「日本国民」であることの違いをあまり意識しないで今日まで来てしまったが、より抽象的なレベルの「国民」とは何か、について考える必要がある。
●国民意識とは何か
わが国には「日本人」としての一体感はずっとあったが、自覚的に国民意識を形成する経験や自覚的に国家を建設するという経験は乏しい。
その背景には、民族間の確執や国際紛争の経験が非常に少なかったことが関係しているものと思われる。
わが国が自覚的に国家建設に邁進したのは、古代国家の建設と明治維新の2回だけであった。
大和民族が自動的に「日本国民」であるならば、あえて国民とは何かを論じる必要はない。
国民イコール民族ではないから、国民と民族の問題が大きな問題になるのである。
最近テレビで取り上げられることが多くなった、日本国籍に変えて「日本人になった」外国出身のスポーツ選手について考えると、これはこれまで自明のものとしてきた「日本人」というより、むしろ「日本国民」として応援しているのである。
強いチームを作ろうとすれば、どんどん帰化してもらって外国系日本人のチームができればいいが、多くの日本人がそれを日本チームと思うかという問題がある。
もし多くの日本人が「これは日本チームだ」と思うようになった時に、大和民族である「日本人」というより、むしろ「日本国民」として捉え、「日本国籍を選んで日本国家の一定の手続きを経て、日本国民として生きることを選択した人たちなのだから日本国民なのだ」と自覚するようになる。
サッカーの国際試合で国旗を振って応援するのは、当然のことながら日本人として観ているのであって、「日本国民」という自覚的な意識からではない。
●国家の命脈と国民意識
福沢諭吉によれば、歴史を共有するのが「国民」であり、個人の中の「国民」というアイデンティ自体は「個人」より長く生き続ける。
自分が生まれてくる以前の事件が、自分にかかわっているかのように思うのは、自分の個人的な生命を超えて「国民」というものが存続していて、そうした様々な過去のいきさつを我々の中の「国民」という層が引き受け、「国家の命脈」という縦軸の連続性を自覚し、それをどのように将来につないでいくかという意識が「国民」意識に他ならない。
残念ながら戦後の日本国家の歴史は、戦勝国が敗戦国を一方的に断罪した、英語で書かれた「太平洋戦争」という米国史観に基づいて書かれた。
「国家」「国民」という言葉が占領下の教科書検閲の基準として明記され、教科書から徹底的に排除され、「国家」「国民」は「ナショナリズム」「軍国主義」につながると危険視された。
●「あなたは国籍を変えたいと思うか」の調査結果
2000年の1月21日付け読売新聞に、「あなたは国籍を変えたいと思うか」という問いに対する調査結果が発表された。
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