まことに残念なお知らせが名古屋から伝わってきた。
しらかわホールは公共的な宝だ
しらかわホールは、名古屋、いや日本が誇る素晴らしい音楽ホールの一つだ。これは間違いない。
音響設計に優れたこの規模のシューボックスタイプの音楽ホールは極めて貴重である。
それよりもなによりも、たくさんの若い音楽家たちをあたたかく包み込み育ててきた、そういうホールだ。
関係各方面のご努力で、なんとか存続の道が開かれるよう、切に願っている。
しらかわホールについて
以下、しらかわホールの公式サイトからの引用です。
とても素晴らしいホールであることがお分かりいただけると思います。
しらかわホールのおもいで
しらかわホールには何百回と通った。ほとんどは聴衆の一人として。ときに演奏会の主催者として。
2000年12月20日
私は演奏家ではないが、出演者としてたった一度だけステージに立たせてもらったことがある。西暦2000年12月20日のことだ。
バッハ没後250年。私が音楽大学に就職して5年目のクリスマスを迎える頃のことだった。
「バッハ再考:バッハとその時代を考える」という演奏会でナビゲーションを担当させていただいたのだった。音楽が専門でない政治学者である私が、ステージに立ってよいものか大いに悩んだが、ぜひ一緒にと、同僚の先生方のお誘いで意を決することにした。
開演前まではいろんな批判も浴びた。どうやら批判のネタを探しに演奏会を聴きにきてくださった先生方もいたように記憶している。
終演後は、多くの方にお褒めの言葉をいただいた。嬉しかった。
何が嬉しかったのかというと、音楽大学に就職したものの外様的な扱いを受けることもしばしばであった。どうせ、すぐ他の大学に移られるんでしょ、などと言われることも多かった。
石の上にも5年
その音大に就職してから5年。ようやく同僚として認められたような気がして嬉しかったのだ。
しらかわホールの舞台に特大のスクリーンを張って、曲の合間にプロジェクターを使って壇上でナビゲーションをする。
しらかわホールにプロジェクターを持ち込み、舞台にスクリーンを張ったのは私がはじめてだったそうだ。
音楽が専門でない私は、バッハが生きた時代について、政治を含むヨーロッパの歴史的背景を交えながら語ることにした。こちらは終演後にどんな批判が飛んでくるだろうとヒヤヒヤしながらのナビゲーションであった。共演する先生方は、演奏の準備に忙しく、私の原稿になど目をとおす暇もなかった。私は孤独に準備するしかなかった。
終演後の打ち上げでは、あるピアノの大先生から大変なお褒めの言葉をいただいた。恐縮しつつも、やはり嬉しかった。
10年後 学長に 運命のしらかわホール
私がその音大の学長になったのは、この演奏会から10年後のことであった。そうなる運命は、じつはこのときこの場所から、しらかわホールから始まったのだと思っている。