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異端のススメ 〜普通であることの難しさ
「普通であることの難しさ」
私がとある国立大学の助手だった時代に、ある講演会を企画することになった。その際に候補となったタイトルがこれだ。
このタイトルは講演者の発案だった。私には違和感しかなかった。
普通であることの難しさ?
普通である必要があるのか。
そもそも「普通」とはなにか?
「普通である」=「普通でない人」を想定するということなのか。
議論してわかったことだが、その講演者はどうやら自分こそが「普通」だと主張したかったらしい。
だが、私から見てその人はいわゆる世間的な「普通」とはまったく違う個性の持ち主であった。
こんなに魅力的で個性的な人でも「普通」であることにこだわるのか。
私にとっては、意外な驚きだった。
「普通」でありたいという圧力。
「普通じゃない」ことに対する恐怖。
議論していて、そんなことを感じた。
普通である必要はないんじゃないですか?
素朴にそう言ってみた。だが、なかなか通じなかった。
普通ってなんですか?
これにはうまく答えられないようだった。
普通にこだわるのをやめたらどうですか?
そうすると、どうやら自らの存在の根拠が不安定になるらしい。どうしても「普通」にこだわりたいらしい。そんなにも「普通でありたい」のか。
「普通であることの難しさ」
いやはや、「普通であること」とはこんなにも難しいことだったのか!と恐れ入った記憶がある。
その講演者は、聴衆に向かって、昨今のご時世のなか、普通であることの難しさを説き、普通であれと呼びかけるつもりでいたのだった。
議論を踏まえて、私が提案したのは別のタイトルだった。
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