「悪魔との対話」と「悪魔祓い」一聖書と仏典に学ぶ

ローレンスの『黙示録論』の要点

妻の卒業論文のテーマはD・H・ローレンスの「現代人は愛しうるか」であった。英文科でESSのサークルに属していた妻は、美しいクイーン・イングリッシュが典型的なジャパニーズ・イングリッシュの私とは対照的で、英文で卒論を書いたが、卒論執筆時に交際していた私が、「現代人は愛しうるか」という問いに対するローレンスの答えを尋ねると、「愛しえない」であった。現代人は愛しえないという結論の卒論を書く妻が私からの再三のプロポーズを簡単に受け入れなかったのは、今にして思えば当然のことだったのであろう。
 ローレンスの『黙示録論』(福田恆存訳、ちくま学芸文庫)23章の要点を倫理研究所の丸山敏秋理事長は次のように要約している。

<この世に純粋な個人など存在しない。人間が完全に独立であることはなく、国家をはじめとする諸集団の意識の断片に他ならない。集団的存在として、人は己が権力意識を満足させることにおいて自己を充足させる。孤立したまま、救いを得ることはできない。そして個人は、ついに愛することができない。・・・黙示録はわれわれが不当にもあらがっているものの何であるかを明らかにしてくれる。われわれは不自然にも。己がコスモスとの結びつきに、いや世界、人類、国家、家族との結びつきに、いや世界、人類、国家、家族との結びつきに抵抗しているのである。・・・人間にとって、最も重要なことは、生きて連帯することである。そのために、一回だけ生殖力を持つことを許されている。われわれは、コスモス、太陽、大地の一部であり、同様に人類、国民、家族の一部である。まずは、それらとの有機的な結合を再びこの世に打ち立てるよう努めよ。・・・悪魔は破壊の力である。人間をコスモスとの結びつきから切り離そうとする悪の力である。黙示録に内在している悪魔と対峙し、乗り越え、コスモスとの調和的結合を取り戻さねばならない。>

聖書の悪魔に関する記述

 聖書及びキリスト教に登場する悪魔は、その悪の力がグロテスクなほどに先鋭化していて、日本人には異様な感じがする。それは一体何故なのか。京大の高橋義人名誉教授は「悪魔と実存」という一文で、次のように指摘している。

<キリスト教的な神の概念を理解するためにには、西欧人にとっての悪魔というものを知らなければならない。神(絶対者)を把握しようとする西欧人にとっては、それを阻む力、すなわち悪魔との対決が大きな問題になる。キリスト教とは、一方では神の存在を信じ、他方では神に敵対する悪魔の存在をも信じる宗教なのだから。>

  丸山によれば、新約聖書には悪魔に関する記載がおよそ三百か所もあり、福音書の場合、イエス自身が荒れ野で悪霊から誘惑を受けるエピソードを始め、個別の憑依の事例が七か所あり、悪魔は実際に人間に憑依する実体として存在する。この世に悪魔が存在し、時に大々的に顕現することを明確に自覚し、巧みな文章で発信した仏教学者が『日本的霊性』の著者である鈴木大拙であった。

仏教教義の「十悪」「五逆」とは?

 人間の修行を妨げる一切の悪神は「悪魔」と呼ばれ、仏伝にもしばしば現れる。仏教学者の中村元は、悪魔はしばしば「外道」と併称されると述べており、仏教の教義では、悪の具体的内容は「十悪」「五逆」などである。前者は「十善戒」から「不」の字を取ったもの、すなわち「殺生、邪淫、妄語、悪口、両舌、邪見」等で、「身による悪」「口による悪」「意による悪」とされ、殺生と邪見が最も重い悪となる。
 後者の「五悪」は、「殺父」「殺母」「殺阿羅漢(悟りを得た僧)」「破和合僧(僧団の破壊)」「出仏身血(生身の仏陀の身を傷つける)」であり、犯した悪魔は無間地獄に落ちる。仏教では前世で行った善悪の行為の報いを承けることを「宿業」と呼ぶが、悪を成すのは人間にとって避けられないという諦観がそこにはある。悪人だからこそ無量寿仏の本願によって救われる、と親鸞は説いた。

スウェーデンボルグ『天界と地獄』の思想

 丸山によれば、鈴木大拙はスウェーデンボルグの神学や神秘思想と出会うことで、既に見出していた独自の「霊性」の概念を構築する上で力を得たという。スウェーデンボルグは霊(霊魂)を死後になお生きる人間そのものと捉えた。死とは断絶ではなく、生き続ける人間が一つの状態から別の状態へ移行することに過ぎない。
 人類が創造されたのは、永遠の生と幸福が実現される天界の創造のためである。他方の地獄とは、霊となった人間が神の絶対愛に背き、自己愛と世俗愛という霊的な転倒が生み出した世界である。地獄には悪魔などないが、地獄の霊たちの内面には、憎悪・傲慢・復讐心・殺意・虚偽・欺瞞・淫欲・不摂生・支配欲等々の悪が充満していて、現実の悪はそこから流入してくるとスウェーデンボルグは捉えた(高橋和夫『スウェーデンボルグの思想』講談社現代新書、参照)。

マタイの福音書の「荒野の誘惑」場面

 丸山によれば、孔子もソクラテスも異界の神(天、神霊)の声を聞く能力を備えていた。釈迦とイエスキリストは修行や試練を経て異界と自在に交わる能力を獲得したのだという。その経過において出現するのが悪魔である。マタイの福音書第4章の有名な「荒野の誘惑」の場面には次のように書かれている

<さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして,40日、40夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った。「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」・・・次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべ国々とその栄華とを見せて言った。「もしあなたが、ひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた。「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを連れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。>

釈迦と「悪魔との対話」

 また、『ブッダ悪魔との対話』(中村元訳、岩波文庫)によれば、「悪魔に関する集成」に関する記述の中に、次のような一節がある。

<悪魔・悪しき者は、尊師に、髪の毛がよだつほどの恐怖を起こさせようとして、尊師に近づいた。尊師は悪魔・悪しき者に詩で語りかけた。「悪しき者よ。お前は打ち負かされたのだ。破滅をもたらす者よ。身にも、ことばにも、こころでも、よく気を付けて制している人々は、悪魔に支配されることがない。彼らは悪魔の追随者ではないのだ。そこで悪魔・悪しき者は「尊師は私のことを知っておられるのだ。幸せな方は私のことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。>

 丸山によれば、仏教における悪魔は外的な実体ではなく、人間の内面的・心理的な作用を表し、釈迦に襲い掛かる悪魔は、快楽を求める欲望と死の恐怖に大別できるが、どちらも人間を堕落させ委縮させ、溌溂とした人生を妨げる二大要因に他ならない。

●「悪の力」を払いのける「悪魔祓い

 それに対してキリスト教など多くの宗教や民間信仰において、悪魔は人間の内面に潜む「悪の力」であるよりも、異界から出現する超自然的な実体と捉える場合が多い。それは時として人間に憑依して、人格を破壊し、周囲を巻き込んで不幸のどん底に叩き込む。
 古くから行なわれてきた「悪魔祓い」の特殊な修法によって、人間生活に害をなす「悪の力」を払いのけてきたが、映画「エクソシスト」はこの「悪魔祓い」の実態を踏まえて制作されており、医学的観点から見た悪魔憑依について研究したリチャード・ギャラガー著『精神科医の悪魔祓い』(松田和也訳、国書刊行会)が参考になる。
 今日の人類の対立・分断を深刻化させている「悪の力」を払いのける「悪魔祓い」こそが求められている。そのためには、対立・分断の根因である「悪の力」とは何かを明らかにしなければならない!

 


 

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