米留学時代に私を救った3枚のポスター

 人は何のために生きるのか。悶々と悩み続けた高校時代。いくら考えても答えを見出すことができず、夏休みは部屋に閉じこもって、西田幾多郎等の哲学書、鈴木大拙等の宗教書、夏目漱石・三島由紀夫・武者小路実篤等の文学書を読み漁った。しかし、読めば読むほど虚しさは募るばかりであった。

父が与えた「啓発録」と「竜馬がゆく」
 父がそんな私を心配して、橋本佐内の『啓発録』を机上に置いた。「稚心を去れ」「志を立てよ」「気を振え」という言葉を紙に書いて机の前の壁に貼って、毎日朗読したが、すぐに心のコップは下を向いた。
 福井県の中学校では、今でも「元服式」を再現した「加冠の儀」が行われ、校長先生が中学生に「加冠の儀」を行っている学校がある。福井県の中学校教員の研修会で講演した折にそのことを知らされた。
 高校生の時に父は司馬遼太郎著『竜馬がゆく』を机上に置いた。先人の生き方を通して元気のない私を鼓舞しようと必死だったことがひしひしと伝わった。この本を私は徹夜して一気に読んだ。深く感動した。
 しかし、竜馬はすごい偉人だが私はだめな人間だという固定観念からどうしても脱却できなかった。数え15歳で「元服式」という大人になる「通過儀礼」を経て大人になっていったのに、現代人は20歳で「成人式」を迎えても心が大人に脱皮できない。
 私は成人になる20歳で生まれ変わりたいと強く願って、誕生日の半年前にテープレコーダーとタイムスイッチを買い、魂を揺り動かす元気になる言葉を吹き込んで、朝3時になると自分が朗読する言葉がテープレコーダーから流れてくるようにセットして毎日聴いた。
 就寝前や通学の車中やつまらない大学の授業の時など、こころに沁みる言葉のシャワーをいっぱい浴びて、私は青春時代の長い心の闇のトンネルから脱出することができた。この高校時代の苦しい思い出が後に神奈川県教育委員会の不登校対策協議会の専門部会長として、『学校に行けない子供たち』という冊子を責任編集する際に役立った。

「史朗」という名前に込めた父の願い

 私の人生でもう一つ辛かった時期がある。占領中の昭和25年に生まれた私に「史朗」という名前を付けたのは父であるが、「歴史を明らかにしてほしい」という願いから命名したという。
 在米占領文書研究のために米大学院留学を決意した日に電話でそのことを伝えたところ、私は初めて名前の由来を知らされた。父は私の決意を聞いて電話口で泣いていた。
 「歴史を書き換える」という高い志を抱いて渡米したが、240万頁に及ぶGHQ民間情報教育局文書のコピーは当時は年間100枚しか許可されず、私はひたすら筆写し、筆写した用紙の量は段ボール10箱を超えた。
 私が探していたのは「神道指令」と教育基本法の成立過程、教育勅語の廃止過程に関する文書であった。これらの関連文書を発見するまでに2年半の歳月を費やした。
 妻は帰国し意を決して誰にも会わず1日3食、明星ラーメンとシイタケと乾燥ワカメだけで研究に没頭する中で次々に機密文書を発見し、帰国後、政府の臨時教育審議会総会で教育基本法の成立過程と教育勅語の廃止過程について報告することができた。今も髭を伸ばしているのはその時のハングリー精神を忘れないためである。
 極秘文書発見までの辛かった約3年間の米留学時代、私を支えてくれたのは、大学でふと目にした次の3枚のポスターであった。

「あえて夢見ようと思うことを夢見よ。行きたいところに行け。なりたいものになれ。真に生きよ。」(カモメのジョナサンの詩の一節)

「願いを実現する力を与えられないで、願いを与えられるということはない。しかし、そのためには努力しなければならない。」

「冬の真っ只中にあなたの心の中に目に見えない夏がある。」

 私は大学当局にお願いして、この3枚のポスターを日本に持ち帰り、私が明星大学を退職する際に、教え子であるゼミ長にプレゼントし、今このポスターの「志」「願力」「心のコップを上に向ける『主体変容』」の精神は、髙橋塾生に受け継がれている。
 
 
 
 

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