鄭雄一教授の道徳論⑷一道徳と言葉の関係…他人のために自分を犠牲にできるのは人間だけ
道徳と言葉の関係性について、鄭教授はどのように捉えているのかについて、要点を紹介したい。
デカルトは「私は考える、だから私は存在する」と言ったが、「考える」こと自体が、社会に基礎を置く言葉に全面的に頼っている。この影響を十分考慮せず、純粋な個人の中に、人間の道徳や正義の根拠を求め、「道徳は個人個人が決めるもの」とする考え方には、大きな無理がある。
「私」という言葉の中に、「私」以外の要素がたっぷりと入っていることを認めるならば、その方がずっと面白い考え方の出発点になる。
●言葉は道徳にどう影響するのか
言葉は、ある概念とある音とを結び付けたものであるが、これがコミュニケ―ションに一体どのような質的な違いをもたらすのであろうか。それは「三人称」と「時制」である。
「三人称」とは、コミュニケーションの上で、第三者が伝え手と受け手を離れた独立した存在として扱えるようになったことである。三人称がない状態では、伝え手と受け手がコミュニケーションしている場に、第三者がたまたま居合わせた時だけ、伝え手の気持ちの表現を通じて、その情報が間接的に伝わる。三人称ができたお陰で、たとえ第三者が空間的、時間的に離れた所にいても、その情報を扱えるようになった。
「時制」とは、コミュニケーションの上で、現在以外の時間を扱えるようになったことである。三匹の犬で例えると、第三の犬に第一に犬が過去の事件(第二の犬はその事件に居合わせていない)を思い出して、怒って吠えかかっているとしても、第二の犬には「第一の犬が、今第三の犬に怒っている」ことしか伝わらない。過去のいきさつに関する情報は全く伝わらない。
ここで重要なのは、過去や未来が伝え手自身の中で区別されているかということではなくて、その区別が聞き手に伝えられるかである。
人間の言葉は、ある概念とある音とを結びつけることで、「今」「ここで」感じていることしか伝えることができなかった動物のコミュニケーションに、時間と空間の座標軸を導入することに成功したのである。
そのために、時間的、空間的に遠く隔たった、今ここにいない第三者に関する情報を伝え、処理することができるようになったのである。「時間的、空間的に遠く隔たった、今ここにいない第三者」には、すなわち、「これまで出会ったことがないし、これから出会うこともない赤の他人」が含まれる。
人間だけにあるバーチャルな出会いは、人間の言葉のこのような特殊な能力から生まれたのである。それで、人間に特有の宗教や国家や民族という巨大な社会ができたのである。
人間の道徳は「これまで出会ったことがないし、これから出会うこともない赤の他人」の仲間に対しても、「仲間らしくしなさい」と命じているのであるが、「三人称」も「時制」も使えない動物には、この命令は決して理解できないし、ましてや命令することもできないのである。
●他人のために自分を犠牲にできるのは人間だけ
赤の他人のために自分を犠牲にできるのは人間だけである。この最も顕著な例が、警察官や消防士による、犯罪や災害に遭った人々への、命を懸けた救助活動である。助ける側と助けられる側に血縁関係はなく、顔見知りでもない。
東日本大震災で放射能汚染された原子力発電所での危険な作業に、自ら志願して赴いていった、技術者OBたちの行いも他人のために自分を犠牲する行いであるといえる。
ハチやアリの社会においては、外敵が侵入した際に、労働あるいは戦闘階級の個体が自分の命を捨てて戦いを挑む。彼らになぜそのようなことが可能なのかと言えば、ハチやアリの一匹一匹が細胞に、コロニー全体が一つの個体に相当するからである。
個体同士は互いに遺伝的にとても近く、他の個体は自分の一部とも言える訳で、個体の利益と社会の利益がとても近い。これは人間に特有の宗教・国家・民族などの巨大な社会における他人のために自分を犠牲にする行いから見れば、本当の意味で「他人」のためではない。むしろ自分のための行いの一種である。
自分と他人の区別に関してよく考えないで、表面上の類似だけから、ハチやアリの社会と人間の社会を比較して「似ている」「ハチやアリの方が、社会としてすごい」などと捉えても、人間の社会の本質に迫ることはなかなか難しい。
●言葉に基づくバーチャルな出会いの役割
人間は言葉のおかげで、今ここにいない見ず知らずの赤の他人の情報を扱うことができる。そのため、各個人は見ず知らずの赤の他人に関する情報を効率よく集めて、バーチャルな出会いを作り出すことができる。
この特殊な情報処理能力のおかげで、人間は見ず知らずの赤の他人の仲間らしさを評価することができ、またそれに基づいて見ず知らずの赤の他人と直接出会うことのないまま協力し、分業することができる。
見ず知らずの赤の他人同士の高度な協力と分業は、人間に特有の宗教・国家・民族といった巨大な社会を形作り、維持していくために欠かせない。
結局、言葉に基づくバーチャルな出会いは、宗教・国家・民族などの人間特有の巨大な社会において、見ず知らずの赤の他人の間で、「仲間であるという気持ちを作り出すこと」と、「仲間らしさを評価して、協力と分業を促進すること」という二つのとても重要な点において貢献しているわけである。