能から再び「日本的ウェルビーイング」について考える
11月15日付noteの拙稿「和と能から『日本的ウェルビーイング』について考える」について多くの反響が寄せられたので、能楽師(ワキ方・下掛宝生流)の「日本的ウェルビーイング」論について補足したい。
●能という「不在」のシステム
能には、「せぬ隙(隙)」という概念がある。「何もしない間」という意味である。能の動作は「静止」を作るためのものである。能の囃子(音楽)を聴いていると「音というのは、音と音の間の無を作るもの」だということが分かる。音そのものに意味があるのではなく、音とは「無」を作るためのものなのである。
それは能舞台上の大道具や小道具などを置かないために、観客が何でもそこに投影できることとも似ている。空虚空間だからこそ、そこには何でも見ることができる。禅庭における「枯山水」も同じである。
また和歌や能を読んでいくと、日本人の感性が今の日本人と随分異なっていたことに気づかされる。一言で言うと、五感の区別があまりないのである。
藤原定家は、自分の袖の上で「梅の匂い」と、軒漏る「月の光」とが姸(けん)を争っているというような和歌を詠んでいるが、彼にとっては匂い(臭覚)と光(視覚)が同一平面にある、ある種の共感覚的な感性である。
そこには五感というふうに感覚を区別するような視点や客観的な視点もなければ、さらに過去、現在、未来を俯瞰(ふかん)する視点も存在しない。あらゆる「区別」がないのである。これも「無」であり、他人と比較して不安になることもないし、過去を後悔し未来を心配する必要もない境地である。
世阿弥の完成した能や松尾芭蕉によって完成された俳諧のことを、高浜虚子は「極楽の文学」と呼んだが、それは世阿弥が「何もないから、何でもありうる」という境地の至っていたことにも通じる。
江戸時代の俳諧師たちは、世の中を「俳諧(ユーモア)」で読み直す,俳諧的生活と呼びうる人生を目指したという。その境地に至るには、禅の修行や能の稽古、あるいは俳諧の修行などを通して、「わたし」を捨て、集合的な存在と一体化するための修行が必要であり、「色即是空、空即是色」である。それによって得られることが、「日本的ウェルビーイング」の一つのかたちに他ならない。
●能における制限と自由
世阿弥は「初心忘るべからず」と言ったが、「初」という字は、着物を作るときに、布地の最初に刀(鋏)を入れることを表す漢字である。進歩するためには、過去をバッサリ切る必要がある。それが「初心忘るべからず」である。
能もそのように何度も何度も過去を切り捨て、新しいかたちに変容してきた。この考え方は「わたし」というアイデンティティに関しても拡張できる。現在と過去、そして未来を繋ぐ複層的な意識があり、それは日々「初心」によってアップデートされながらも、継承されていく。それが世阿弥の「初心忘るべからず」である。
また、身体についていえば、「制限がある中にこそ、自由がある」という考え方がある。能の衣装は、どんどん硬く、重くなっているが、これは、敢えて身体の制限を作るための変化であったという。
世阿弥は「無主風(主体性のない芸風)」と「有主風(主体性のある芸風)」と表現したが、能の稽古は徒弟制で、師匠と一緒に過ごしながら、師匠の芸のみならず、色々なことをそっくりそのまま真似する。その時の芸は「無主風(主体性のない芸風)」といわれ、 それを身に着けるまでに最低10年はかかるという。
それがある瞬間に「有主風(主体性のある芸風)」となり、ここで初めてその人の役者としての人生が始まる。このように芸風が変わることができるのは、身体に制限があるからなのである。
完璧なAIと完璧な身体的機能を搭載したアンドロイドがいると想像してみよう。脳にも制限のない、また身体のあらゆる関節には完璧なプロプリオセプターを備えたアンドロイドである。アンドロイド君には疲労や忘却がないので、長時間の稽古にも耐えることができ、完璧に覚える。おそらく彼は人間よりも早く師匠の動きを習得することができるであろう。
しかし、それでも師匠の完璧な真似はできない師匠は日々、変化しているからである。彼が到達できるのは、「過去の師匠」の真似だけである。また、アンドロイド君はどんなにうまく真似をしても、師匠の真似、すなわち「無主風」から脱することはできない。
それに対して人間には制限があり、師匠から2時間の稽古をしてもらっても、その帰路、多くの人は10分の1も覚えていない。実はこの忘却こそが大切なのである。
●無主風から有主風への変化が「個性」になる
人間は、その忘れた分を自分雄過去の体験や蓄積した経験としてのストックで「補う」ことができる。ストックがある沸点を超えた時に、「無主風」は突然師匠とは違う「有主風」に変容し、「個性」となるのである。無主風から有主風への変化は「制限」によってのみ実現されるのである。
能は空間でも同じように物理的な制限を設定してきた。能では、三間四方のの狭い舞台をただぐるぐる回るだけで、この狭さは観る人の脳を誘発して、天女が月まで飛翔する姿を観客は幻視するのである。空間に制限があるからこそ、精神が自由に飛翔できるというのが能の考え方である。
能には自分はあの人かもしれないし、今は昔かもしれないという「共話」的な感性。「私」を超越した「和」の感性が背景にあるのである。
AIやネットに譲り渡した脳の余裕こそが、世阿弥の言う「せぬひま」である。身体に制限があるからこそ、人が無主風から有主風に変わることができるように、「知」すらもAIにとってかわられた脳は、全く新しい精神活動を生み出すかもしれない。そこで生まれる新しい精神活動は、今の私たちでは想像できないほど豊かなものになるであろう。
もともと「わたし」にこだわらない、「和」の日本的ウェルビーイングは、そのような新しい社会を主導しうるはずである。新しい「私たちのウェルビーイング」を作り合うために、今こそ昔の日本人の生き方を学び直す必要がある。
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