イデオロギー対立を超えた親守詩(おやもりうた)の文化的意義
●「親守詩」の原点一「病床の母に聴かせる子守唄」
幼い頃、母がいつも口ずさんでいた子守唄を聴きながら育ちました。その母が年老いて病み生死の淵を彷徨う臨終の場面に立ち会いました。我が子の存在を認知できなくなった母に何を語りかければよいのか。ただ一言、「産んでくれて有難う。育ててくれて有難う」の感謝の言葉しかありませんでした。この思いから「親守詩」は生まれました。東日本大震災から見事な復興を遂げた気仙沼市の青年会議所の親守詩大会で、私が審査委員長賞に選んだのは、「病床の母に聴かせる子守唄」でした。この思いが「親守詩」の原点といえます。
全国各地で教育委員会後援の親守詩大会が開催され、内閣府・文部科学省・総務省後援の全国大会も5回盛大に開催され、全国大会の受賞作品は共催団体である毎日新聞社が毎年1面全体の紙面を割いて掲載されました。
東京青年会議所が中心になって、東日本大震災で東京に移られた多くの方々に招待状を出し、お台場海浜公園で灯篭流しと私もパネラーとなってシンポジウムを開催し、猪瀬直樹副知事も駆けつけてくださいました。六本木アリーナで親守詩大会を開催し、テレビ朝日が気仙沼で同時開催されていた親守詩大会と中継で結び、六本木を歩いている親子に即興で親守詩をつくってもらいました。
全国に広がった親守詩大会の口火を切ったのは、愛媛県青年会議所でした。親に反抗して家を出たが、親の愛に目覚めて親を思う気持ちを作詞作曲しギター片手に歌う若者たちが結集し、感動的な光景が松山市のど真ん中で繰り広げられた。
飯田市で今も開催されている親守詩大会の開会式では、地元の養護学校の生徒の見事な和太鼓演奏で幕を開けるのが恒例となっており、松山市と同様、地元の女性歌手が作詞作曲した親守歌を披露してくれた。
●イデオロギー対立を超えた親守詩
かつて沖縄県八重山地区では教科書採択で激しく対立しましたが、親守詩の取組では青年会議所が中核になって首長も参加し見事に一致団結して、革新系の首長が親守詩を絶賛する挨拶を行い、イデオロギー対立の壁を打ち破りました。
とりわけ被災地に親守詩が広がりました。日本人は昭和天皇の昭和21年の歌会始の御製の「ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ」に詠まれている「雄々しさ」の伝統精神で国難に対処し、震災などの多くの困難を乗り越えてきました。
「子守唄」に対して、「親守詩」を提唱したのは、定型詩や連歌、エッセイなど多様な表現形式によって親子の情を深めたいと思ったからです。親心と親の恩に感謝して子が親を想う孝心の代表作は、山上憶良の「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」(万葉集)と吉田松陰の「親思ふ こころにまさる 親心 けふの音づれ 何と聞くらむ」という和歌といえます。
●「敷島の道」を現代に蘇らせる
子供への愛情を「子宝」と表す親心を表現したこの山上憶良の和歌は、万葉集に収められており、斎藤茂吉はこれを第一等の詩と高く評価し、自身も「死に近き母に添寝のしんしんと遠田の蛙天に聞ゆる」と詠みました。
古来より日本人は五七五七七という不易な型に美しい日本人の心を凝縮して和歌に詠み、百人一首のように「読む」ことによって、凝縮冷凍された大和心を解凍し、美しい日本人の心のダイナミズムを再現してきました。
親守詩はこのような日本人の精神的伝統の一つである「敷島の道」を現代に蘇らせる文化的意義を有するものであり、さらにエッセイなどを通して親子の情や絆を深めることが、家族よりも個人を優先してきた戦後の日本人の意識転換を促し、美しい日本人の心を取り戻す契機となることを念願しています。