クリスマス・エッセイ
幼いころ日曜学校に通っていた。
「日曜学校」とはキリスト教会の牧師が校長先生となって、毎週日曜日に開かれる子ども教室のことである。そこに通い始めたのは2歳のころからだった。
ミッション系の保育園に預けられていたので、その延長線上ではあったが、私にとって週ごとの日曜学校はぬくもりのある居場所であったことを記憶している。
特に、毎年のクリスマスお祝い会のことは生涯、忘れることはないであろう。小さな町の小さな教会のクリスマス会には、この時と言わんばかりに町中の子供たち100人余りが集まったものだった。礼拝堂にその人数は入りきらず廊下玄関にも幼児から小学六年生が一杯になった。
赤いろうそくにそっと灯をともすキャンドルサービス。みんなで静かに歌う賛美歌。真っ白なホイップクリームの上に苺がちょこんと乗っかったケーキ。そして牧師先生が一人一人に手渡すプレゼント。
今なお、思い出すだけで胸がきゅんとなる甘やかでやわらかい思い出たち。これが私のクリスマスの原点だ。
さて、あとあとティーンエイジになってから知ったのだが、日曜学校の校長先生であるこの教会の牧師は非常に貧しかったことだった。
100人余りの子供たちに渡すためのクリスマスプレゼントや食するケーキを準備するために、先生ご夫妻自身は日々の生活費も食事も削っていたのであったのだ。
ある年はお人形、また別の年は金細工の栞などクリスマスのたびに贈り物をいただいたが、形あるそれらよりも、牧師先生ご夫妻がご自身の食事を削ってまで与えてくださった愛情こそがプレゼントであり、「生き方」を示してくだったことが、じつは何よりの贈り物だったのだと、ふりかえると思う。
大人になった今でも、この時の先生から受け継いだスピリットは少なからず私に宿っている。
だから、私にとっての「クリスマス」は、やんややんやと大騒ぎするイベントではない。
無力ではあるが、せめて、この日は世界の平和を願い、戦禍の中の子どもたちや、弱者・困窮者に思いを馳せたり、胸の中で賛美歌を歌い祈る日。それが私のクリスマスなのだ。
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