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きぼうのうた

noteを約一ヶ月近くお休みして、その間に集中的に病院での検査に明け暮れた。結果から言うと病状はよくなっていないどころか、あらたな病気が見つかったり、これまでの治療とは違うアプローチからの治療提案も提示された。
いつまで苦しめばよいのか。

けれども、私には希望が生まれた。ここまで来ると、もはや「治ることの希望」ではない。病をとおして、苦しみをとおることで、ほかの方々の悲しみや御苦労に寄り添うことができることだ。

自分が平穏で楽しかったらそれで良いなどという人生を送ることではなく、他者のツラサや痛みに気づくことができる人になりたい。絶望の中にも、そのような生きる意味を見出したのだ。

さて幼いころから「やがて偉人になるぞ」といった野望があった。大人になって、結婚生活・家庭生活がうまくいっていた時や仕事上で活躍していた時は「ちょっと偉人に近づいた」ような気持ちにすらなっていた。

ところが一人息子が消息不明となったり、離婚を体験するハメになり結婚生活も家庭生活も破綻した。そして病に倒れ伏して闘病の身ともなってしまい、「結局、私は何者にもなれなかった」との敗北感を、つくづくと味わったのだった。

最初の手術からまもなく10年が経過しようとしている。偉人どころか何者にもなれなかった私は、この「何者でもない私」が今は結構、愛おしい。
繰り返すが、何者でもないからこそ他者に寄り添える。完治しない病だからこそ他者に心をくばる思いが与えられたのだ。

絶望の中から、敗北感の中から見る私の景色は不思議にも希望に満ちている。これから先、自身の状態に悲観することなく社会に他者に目を向けて歩んでいきたいと、なおのこと思う次第だ。

偉人にはなれなかったが、希望のうたを歌っていく者にはなれるかもしれない。

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