「新型コロナの今、考えたい学校の"デフレマインド":新型コロナで働き方改革を忘れてはいけない」(『SYNAPSE』2020年12月号,pp.30-35)

コロナ前に語られた2つのホラーストーリー


 新型コロナ(以下「コロナ」)の付随的影響の一つに経済の冷え込みがよく指摘される。現段階でも主に接客・小売業を中心に厳しい情勢が続き、家計の困難を通して子供にも影響が生じつつある。コロナと世界経済に関してよく参考にされるのが1929年からの世界大恐慌である。恐慌のような景気の急激な悪化はモノ(人の労働・サービスも含めて経済的に売買される対象の総称)が売れず買い叩かれる。つまり、モノと比べてお金の価値が高まるデフレとなる。当時は第一次世界大戦終戦後(1918年)のモノ不足と通貨の過剰発行を原因としたドイツのハイパーインフレが記憶に新しく、恐慌のデフレ対策(インフレ政策)が遅れて、1933年に米国で大量の銀行が破綻するというクライマックスを時間差で迎えることになった(『世界大恐慌』(講談社学術文庫)が詳しい)。なお、暴力的な労働者の政党であるナチスドイツの台頭はハイパーインフレではなく、この世界的なデフレ不況が背景である。
 100年前の「スペイン風邪」も「世界大恐慌」も詳細においては現在とは別ものである。それでも、経済の混乱は時間差でクライマックスを生み、デフレが働く人を苦しめ、世界が不安定になることが分かる。我が国では20世紀末のバブル崩壊(1989年または92年)以降、「失われた10年・20年」などと称せられる長期のデフレ不況が続いた。いわゆるアベノミクスはデフレと社会のデフレマインド脱却を目指して少なくともGDPの上昇と税収の回復を果たしてコロナとともに終わった。これを働く者の視点から図のように整理したい。デフレでは “お金を払う側の優位”と“働く側の不利”が生じ、クレームや安値競争からくる過剰労働や失業からくる貧困問題が生じる。ほとんどの日本の現役世帯は労働者であり消費者であるため不利と有利が同時に生じることとなる(図上半分)。

いわゆるアベノミクスは2012年までのデフレに対して弱いインフレ政策から経済成長と雇用の安定・質の向上を目指し一定の成果を得た。これでデフレ時の雇い主や消費者の優位は失われるが、労働者側には有利となるため、デフレ不況下の失業に怯えるような状態では口にできなかった「ブラック企業」の批判も「働き方改革」の議論も可能となった。
しかし、この間も後述するように総額として伸び悩み、学校教育を巡る財政支出に関して言えば「失われた30年」ともなるようなデフレ的な資金不足の苦況が続きつつある。学校教育の環境整備は世間の好況に取り残されるように資金不足で経営資源全般(モノ)を安上がりにしようとしすぎて、例えば教職員の労働は「学校のブラック企業化」と世間に噂され異様な教員採用試験倍率低下が生じる状況となった。ここまできて、我々は今年コロナを迎えた。

コロナ以前の、“これから10年程度の労働観”展望


 デフレと不景気の恐怖が少し和らいだこの5年ほどの間、デフレとは異なる2つの恐怖の未来像(ホラーストーリー)が語られている。一つは“人口減少時代では労働生産人口が減少し、近未来に生活インフラが維持できなくなる”という未来像である。多くの学校現場では子供の減少だけでなく、周辺住民の老齢化で草抜きや通学支援などの地域支援人材が枯渇し、学校の存続以前に施設や活動の維持が困難になり始めている。もう一つは“技術革新で自動化が進み、多くの仕事がなくなり失業者が増加する”という未来像である。学校の苦難で言えばグローバル化と情報化などからなるGIGA(Global and Innovation Gateway for All)スクール構想などの新規の教育課程や教育方法に関する課題が増えるのに、早々に“教職員の仕事は自動化がほぼ不可能”と指摘される忙しい未来像である(この辺りは『公立小・中学校教員の業務負担』大学教育出版会が参考となる)。ところで、この2つの未来像は下図のように問題意識と対策の方向性が逆転して共有されており、図のように合わせると相応に恐怖が中和できることも理解できる。

日本社会も学校も、そして未来の労働者となる子供のキャリア教育も“労働生産人口が減ること”と“主に情報コミュニケーション技術(ICT)によって自動化が進むこと”のそれぞれの利点と注意点を上手く中和しながら時代に適応していくことが課題となる(この辺りは『「AIで仕事がなくなる」論のウソ』イースト・プレスが詳しい)。コロナに注意点はデフレによって一時的な“人手余り”を生みかねず、長期的な人手不足の見通しを忘れさせることと、公衆衛生学的な“三密回避”の要望を教育と労働に求め以前よりも情報コミュニケーション技術の進歩が速まる点が挙げられよう。

教育全般のデフレマインド(希少なお金で人や物事を安く扱う発想)


 日本の国の収入(一般会計税収)はアベノミクス以前の2012年で43.9兆円、確定している2018年で60.3兆円と4割近く回復した。その一方で文部科学省関連予算は2012年で5.5兆円、2018年で約6兆円と1割も伸びていない。また、幼児教育や高校、高等教育のいわゆる“無償化”といわれる修学補助(合計約6千億円)はこの中に割り込んでくる。例えば、“高校無償化”は2010年度から実施(初年度約5千億円)されているが、2009年度の文部科学省関連予算は5.2兆円である。つまり、文部科学省関連予算は日本の好況の中でも頭打ちで、“無償化”の原資の分だけ幼稚園から大学までの環境整備資金が減少していることが理解できる。日本の国全体のデフレ不況が「失われた10年」または厳しく見ても「失われた20年」で終わったのに、学校教育の業界は取り残されるような資金難の「失われた30年」にせまると指摘しても問題はなかろう。結局のところ、学校教育は“貧すれば鈍する”となるデフレマインドを続け、働き方改革とは逆の方向の“学校のブラック企業化”が進んでいるわけであるが、その場合に陥りやすい危険な感覚を2点指摘したい(図)。

まず挙げられるのが民間とお役所の違いである(図上の左右)。私立学校などの財務報告までもが主に、主に収支計算書で年度の予算と決算を行うため、民間企業の基本的発想といえる“利益”という視点がない。つまり、教育行財政全体が利益などの明確な目標のないまま、「収入の部」と「支出の部」が一致する“予算使い切り0円”となる。ここでは借金や資産の取り崩しも“収入”の部に入り、その年度の借金の返済額のみが“支出”の部に入る程度であるためコスト意識や負債に鈍くなる。他方、民間企業はまず営業利益(図の① 主な商売での黒字と赤字)という事業の評価の次に、経常利益(図の② 営業利益に借金返済や投資利益を加えた黒字・赤字)で借金・資産管理の影響を思い知る。そして純利益(図の③ 経常利益に税金などの支出を加え、場合によっては資産売却なども加えた最終的な黒字・赤字)という決算にいたる。福祉や教育は“お金の利益を上げることだけを目的としてはならない”し、“教育効果とは何か?”という民間企業の利益のようなわかりやすい指標も得難い。結局のところ、一生懸命に日常を充実させて、予算の適正使用に努めても、学校教育は自らの費用対効果や資産目減り・負債に鈍感となる。
2点目はデフレ化で民間企業も起こしやすい“経営効率”だけを見て“労働生産性”を忘れがちな感覚である(図下)(この辺りは『労働生産 誤解と真実』日本経済新聞社出版が詳しい)。労働生産性は利益の分母に労働者の働いた時間を置く。経営効率(利益率)は分母に必要経費を置く。いずれも“効率”であるが前者は“働く人の効率”であり“後者は投入した資金が増える効率”である。デフレではモノの一種の労働力は徐々に金銭と比べて価値を低下させ続けるので経営者としては労働者や労働時間に配慮しなくても代わりの労働力は安易に確保しやすい。そのため、人道と人口減少を度外視すれば労働生産性を無視して経営効率のみを重視する“効率化”が合理的となる。
上記2点は学校現場では予算の伸び悩みゆえに30年近く進行し、世界観(マインド)にもなっているといえないだろうか。教職員の健康や人道の議論をいったん忘れれば、少なくともこの20年間で日本の学校は“教育の効果”と“労働生産性”という2つの発想を忘れて“減っていく予算の執行”の中でも、誠意をもって教育課題改善のために教育活動を展開・改善してきた。さらに、労働環境として60歳定年制の中で一応この状況は“持続発展可能”だったわけである。
しかし、教職員の労働環境が主に業界外から人道上の問題とされ、世間一般のデフレ脱却の雰囲気による働き方改革の要望と人口減少時代の持続発展可能性に関する危機感から調査と議論が繰り返されている(例えば、2008年と18年の『教職員勤務実態調査』や2008年と2013年の『TALIS』、それらに基づいた中央教育審議会答申『新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について』、『公立学校の教職員勤務時間上限ガイドライン』)。当面はコロナで世間もデフレとなる可能性が高く、60歳定年制に基づいた退職・採用ラッシュという例外的情勢で目立たないが、これらが議論するように学校の在り方を巡る現在の教職員の働き蚊帳は“持続発展可能”であるとは考えにくい。
なぜなら新卒社会人人口へ全体が減少するし、この数年で“学校というブラック企業就職”の敬遠の雰囲気もある程度、就職市場で定着したからである。未曽有の大量採用時期であることを割り引いても、この10年の教員採用試験の採用倍率低下が極端で、“現場に出る質が伴わない志望者も採用試験合格”という状況が多くの自治体で体感できる。教職志望者の数的枯渇は遠い見通しではない。あわせて、この春はあれほど注目されたオンライン授業も結局は市町村の多くがネット環境未整備で“子供当たりの情報端末の不足”以前に、“情報端末がつながらないインターネットの学校環境”が顕在化した(例えば、『平成30年度学校における教育の情報化の実態に関する調査』)。この省察や改善ではなく、オンライン授業に耐えられる環境整備を経ている大学がまるで“働く時間を省略するための不誠実なオンライン授業”を展開しているかのような議論がなされている。これらこそ“デフレ由来の貧すれば鈍する発想”(デフレマインド)といってもよかろう。

Withコロナの課題として技術革新とデフレマインドを疑うこと


コロナでごく一瞬改善が期待された過疎と過密も結局は改善される見通しはつかない。結局、教職員の大量採用とコロナの不況で世間もデフレになるような一時期が終われば、数的には多い過疎地方の教職志望者は絶対数すら減るはずである。この間、世間では人口減少・過疎とWithコロナのニーズが一致していることもあり、情報コミュニケーション技術に投資が進むだろう。が、学校教育のデフレは設備改善の投資余力の不足となり、そもそもデフレマインドが新しい技術への適応・改善よりも、単純な労働時間延長での対応を志向しているように見える。
コロナ期の今、学校教育に必要なのは学校のデフレを脱却するために資金調達を増やすこと、そして学校を支える労働力が人数や時間という側面で減少し続ける未来に労働時間延長だけでは対応できない時代が来ることを自覚するというデフレマインドの脱却ではないだろうか。その際に、企業の赤字・黒字のように簡単に成果の指標を作れないことを踏まえた上で、“学校が目指す成果とはなにか?”の答えを考えつづけ、“学校の労働生産性”も“学校の経営効率”もあわせて議論し、広く社会の共感を得ていくことが重要ではないだろうか。これらをコロナの時期に放置すれば教育の業界にとって人口減少と技術革新の2つのホラーストーリーは調整や中和がなされないダブルのホラーとなることを恐れがある。


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