「新型コロナの今、考えたい学校の学区と社会心理学:ストレスと社会関係資本で考える感動ポルノとキャンセルカルチャー」(『SYNAPSE』2021年6月号,pp.36-41)
コロナで顕在化したキャンセルカルチャー
新型コロナ(以下「コロナ」)でのストレスが1年を越えた。ストレスの蓄積は新しいストレスを感じやすくするし、ストレス性の依存などの別の問題を生むのでコロナ禍の長期化は当初とは別のストレス反応を生じさせている。脅威を感じること(ストレッサー)は瞬間的に「戦うor逃げる」が選択できる緊張をもたらし、この蓄積がストレスとなる(本誌75号本連載「ストレッサー・ストレス反応過程」参照)。緊張に耐えきれず“思わず”戦ったり、逃げたりする問題行動は人間らしい反応であり、付き合う力や復元する力(レジリエンス)が学習の前提といえる(本誌76号本連載「学習のための積み木」参照)。一方、ストレス対処となる攻撃性の発揮や現実逃避は快楽を伴い、この快楽を得るキッカケを探すようになるとそれは依存の入り口でもある。「倫理」や「正義」は依存の正当化に利用されやすく、「日常生活の倫理」(本誌75号本連載)を考える窓口としての学校はこの問題に巻き込まれやすい(本誌75号本連載)。
コロナのこの1年でこのような攻撃という行為への依存が徒党を組みあい、対立しあうような問題が提示された。例えばキャンセルカルチャー(ほぼ同義で「アウトレイジカルチャー」、「コールアウトカルチャー」)である(伊藤昌亮「現代日本の分断線:キャンセルカルチャーのゆくえ」『中央公論』2020年12月号が詳しい)。学校をめぐる社会心理学として以下の図で考えたい。
学校とその周辺の学区には多様な「絆」つまり利害関係者(ステイクホルダー)のネットワークが存在する(図1左、詳しくは露口健司『小学校区においてソーシャルキャピタルを醸成する』)。「地域」や「コミュニティ」は極めて多義的だが、とりあえずここでは設置者となる自治体や子供が通学する範囲を学校における「地域・コミュニティ」(利害関係のあるネットワークの共有範囲)と定義したい。もともと子供は「可愛い」つまり、愛情を加えることに快楽を感じる対象なので地域のネットワークは概ね学校には協力的である。適切で適度な人間どうしの欲求の交換で学校をめぐる社会心理学も成立している。問題はこのつながりを越えた「地域とはなりえないコミュニティ」からストレス対処の依存的な消費をする感覚・文化である。
依存・ハラスメントとしての感動や炎上・糾弾
学校は例えば学園ドラマのように物語(ナラティブ)(本誌78号本連載参照)として地域や非当事者からも消費が可能である。適切で適度であれば問題ないが、当事者が「迷惑」や「気味悪さ」を感じればそれは「感動ポルノ」(前田拓也「『感動ポルノ』で狭まる障害者の生き方」『新潮45』2016年11月号)などと呼ばれる(図右)。「感動の物語」とは真逆の感情である「正義の糾弾」(コールアウト)や「怒り」、「炎上」(アウトレイジ)、さらに「止めろ」、「辞めさせろ」(キャンセル)という攻撃欲求のはけ口として消費する文化(カルチャー)も成立する。真逆の感情ながら現実逃避と攻撃性はストレスの依存に関わるエネルギーを原動力としている点で根は同じといえる。もともと「犬の鳴き声に迷惑する」ことを意味する概念がハラスメントなので、迷惑する人がでればその行為は「ハラスメント」となる。同時に、ハラスメントの種類が増えすぎて「ハラスメント」を権力闘争の道具に利用可能でもある。図1左のような利害関係者の中での自己評価や関係者評価としての称賛や抗議(クレーム)は絆という建設的な双方向性の文脈にしていくことが可能である。が、非利害関係者やコミュニティ外の第三者の評価はよほど冷静で専門的でないかぎり建設的なものにはならないし、そもそも一方的消費なので受け手に利益はない。
学校も地域もストレスや依存、ハラスメントといったトラブルは日常茶飯事であり、適度な方向性と適度な量に適応していくことに学習・教育の意義があろう。他方でメディアの発展は地理的距離を超越する「地域ではないコミュニティ」が拡大・複雑化しつつあるし、このようなコミュニティは稀な確率でしか存在しない人たちが空間的距離を越えて密接になることで特殊な感情を「客観」と錯覚して先鋭化しやすい(エコーチェンバー効果)。さらにICTの記録の力は今まででは話題にならなかった過去を蒸し返して「糾弾」や「炎上」が後々に生じやすくなっている。コロナという社会的ストレスを高める歴史的出来事が「感動ポルノ」や「キャンセルカルチャー」、「エコーチェンバー効果」をより身近でありふれたものにしてしまった感がある。
ところで、自分自身がどこか感動ポルノや攻撃のはけ口という「癒し」を求めてICT端末に触る際に、「自身もこのような加害者になり得る」ことを実感してもらえると思う。ハラスメントは誰しもが被害者にも加害者にもなりうるし、報復という発想で被害者と加害者が複雑に重なる事を理解することが予防の第一歩なのだろう。
「絆」は読めても「絆され」は読みにくい
もともと人は良く言えば「支えあい」、悪く言えば「依存しあう」存在である。現実の地域もネットのコミュニティも適度・適切な依存が大切である(例えば、佐藤・矢島2017「大学生のSNSにおける対人ストレス経験」『信州大学人文科学論集』)。この適度・適切を学ぶ社会資本(インフラ)が学校である。ここでいう社会とは個々人の間に影響する集団や組織、媒介する道具(お金やICT機器、マスメディアなど)といった様々な人間関係の「間(ま)」の部分の総称である。この「間」や「場(環境)」を考える心理学が社会心理学である。社会心理学ではストレスにおいての支え・依存をソーシャルサポートと呼び、これがネットワークとして集まって「絆」と呼ばれるような、資源を蓄積すると社会関係資本(ソーシャルキャピタル)と呼ぶ。絆は適切・適度を踏み外して、重い依存やハラスメントになりやすい。例えば、親しい者の間での支えが度を超して、「内輪の暴力」(ドメスティックバイオレンス)に発展するし、ストレスが貯まれば「恨み辛み」も敏感になる。また、内と外の区別が極端になると差別となるが、この区別と差別の境界も時代によって変化するほど曖昧である。絆も依存やハラスメントになりうるそんな枠組みが説明できるのが社会関係資本の理論である(図2)。
世界銀行が開発途上国への経済や教育における投資効果の地域差を説明する理論として注目したのが社会関係資本である。特定の人間関係において直接または社会的道具(例えば携帯電話やICT端末など)を仲立ちとする中で信頼感と互恵性、一体感を相互に交換して高めていくことで絆ができる。社会とは複雑な人間関係や社会的道具、思想(共有化された発想の様式)、文化(共有化された行動様式)、風土(共有された雰囲気)といった「場」や「間」、「ネットワーク」の持つ影響力の総称(図2左)であるため人数が増えるとコンピューターでも分析困難なほどに複雑になる。そのため人間の認知も統計を用いた理論も簡略化して「内」とそれ以外を区別していくことで関係性を整理していくこととなる。まずは、個人と他者で、次いで家族と他人で、さらに図1左の様々なネットワークの内と外、学区の内と外、自治体の内と外、自国と他国・・・といったように様々なレベルの単位で信頼感と互恵性、一体感を循環させて絆と呼ばれる資本(ここでは活動や生活の豊かさのための資源)を蓄積していくこととなる。このようにその都度の文脈の都合で曖昧に「内と外」を区別する可変的で曖昧な言葉が「地域」であり、この言葉の便利さと危うさ(可変単位地区問題)を理解することが重要である。
ところで、良い意味でばかり使われる「絆」という字が、もとは「家畜が逃げないように片足を互いに縛りあった漢字」などという説がある。「絆(ほだ)され」と書くと「人間関係から迷惑に巻き込まれる」という暗い意味を持つ。負債も資産の一種として考慮する必要があるし、資本の負の側面への理解不足が経営を苦しめることも多い(詳しくは本誌77号連載)。絆は悪く言えば「コネ」で不信感や報復性(負の互恵性)の連鎖の源である。また、一体感は内と外を区別するという異質排除や不寛容を「適切・適度」で「許される範囲」で進める発想ともいえる。人間とは嫌いな人が応援する野球チームや政党、国、組織、派閥、ブランドなどが負けると嬉しく(この辺りは認知的不協和理論とPOXモデルで説明できる)、「アンチ〇〇」などといった結束を絆として楽しむような存在でもある。これらは「ソーシャルキャピタルのダークサイド」(稲葉陽二『ソーシャルキャピタル入門』中公新書)で、結果として薬物などの依存や犯罪、生活習慣病などにつながりかねないことが指摘されているが、実証的検討成果(エビデンス)はとても少ない。
この理由には様々な要素があるだろうが、絆の負の側面は数量データ(エビデンス)にできるほど一般的な話にはなりにくく、背景になる物語の数々も「記録はしても公開はできない」ものが多いことが一因であろう。不信感が大きくなると触れることすら怖いタブーになるし、報復性という文脈は各々が「被害者かつ加害者」として複雑に絡み合うことを意味する。また、内と外の意識によって客観化が困難なほど互いの語る物語が喰い違う。筆者は過去20年間、教師ストレスの心理チェックシステム開発予備調査として多様な聞き取り調査として学校をめぐる災害、事件、事故、私生活ストレス、「モンスターペアレント」としか言いようのない事例さらに「教育行政VS教職員組合の対立」などのエピソードを記録してきた。いずれも個性的すぎる物語性のため大多数への一般的なチェックリストやエビデンスには反映できないし、記録を公表できない内容ばかりである。結局のところこれらはデータとしても物語としても判断の基盤や参考(本誌78号本連載「EBPM」などを参照)にしにくいものばかりである。これらは裁判・訴訟などのように、「どうしても白黒をつけないといけない局面」以外は真偽が曖昧な物語のままに歴史に溶け込ませてしまった方が今、人が暮らしている地域にとっては望ましいようなものがほとんどである。それでも上記の公にできないエピソードはいずれも、図2のような理論的文脈でほとんどの説明が可能である。
コロナ禍はまずは健康管理、「劇的な解決策」は多くが錯覚
コロナ禍のようなストレスフルな時間が続くと蜃気楼のように「救世主」や「解決策」、逆に「糾弾すべき者」や「止めないといけない事柄」が見えたような気になる。信頼と不信を右往左往し「内と外」が過剰に気にもなる。歴史の勉強で南北朝の擾乱やフランス革命、20世紀の2つの大戦など客観的な理屈では矛盾する社会の離合集散と人為的災厄の繰り返しに苦しんだ人も多いと思うが、今はそんな動乱の時代なのかもしれない。自分の所属しない地域や政治家、電力発電の方法、イベント、ワクチンを人によっては過剰に称えたり貶めたりして徒党を組むような不毛な混乱は社会のストレスの圧力が下がるまでは当面、続くものと思われる。元も子もない言い方をすればICTなどの技術革新で今までにない八つ当たりの行き交う不安定な文化と政情の時代がコロナ禍といえる。
これと付き合う上では、地震や水害、火災、不審者、交通事故などの今まで想定してきた「急いで行動を起こす」学校危機管理と異なる「生活習慣病的危機管理」(本誌75号本連載)は、環境や外部に注目しすぎずに自滅するような「行動を起こさない」ことと、自分の生活習慣や心の安定と向き合う地味な手間に飽きないことが重要である(本誌74号本連載)。今、介入すべきはストレスを貯めてしまいやすい自分自身の内側であり、睡眠と栄養と軽い運動を心がけた生活習慣再設計である。ただ、ストレスの高い状況で「敢えて行動を起こさないこと」自体が新たにストレスを感じる選択でもあることも踏まえ、今できる学校改善を2点の提案したい。
1点目はコロナ禍のこの1年で「学校にとって何が出来て、何ができなかったのか?」に基づいた記録を取り、コロナ禍後の大幅な学校改善の基盤・参考の情報蓄積である。コロナ禍に振り回されたこの1年は劇的で個々人の個性的な体験ばかりで「客観的には何が起きたのかわかりにくい」時期であったと思うが、通常得られない物語とデータの宝庫でもある。この論点は現職教員と教育委員、スクールカウンセラーらの座談会形式で本誌79号で考えてみたい。
2点目はコロナ以前に我々が漠然と理念としていたものがよく考えれば相互矛盾(ジレンマ)を起こすものが多い点である。よく考えずに「働き方改革」と「生産性」 が(本誌77号本連載)、「絆」と「多様性」が両立困難で苦痛のある妥協を考えることを避けてきた感すらある。コロナ禍で再検討が必要となっている「理念の妥協点」に関しては本誌80号で考えてみたい。
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