【連載#8(事件は全て)私がやったことで間違いありません】独占告白/上告を取り下げ、死刑判決が確定した今井隼人死刑囚が全てを語った
#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門
【事件概要】
2014年11から12月、川崎市の有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で、80から90代の入所者3人が、4階と6階のベランダから相次いで転落死した。事件があったすべての日に夜勤に就いていたのは、同施設の介護職員だった今井隼人死刑囚ただひとりだったこと、そして「3人をベランダから投げ落とした」との自供により、2016年2月、神奈川県警は今井死刑囚を殺人の容疑で逮捕。
一転、今井死刑囚は裁判では自供を覆し無罪を訴え続けていた。
【これまでの経緯】
事件や裁判の経過とは別に、介護現場の実情を世間に問い、現状を見直す一助になればとの思いから、今井死刑囚が介護に携わるようになった経緯から、逮捕までを書くことを僕は依頼した。
それについては、これまで今井死刑囚が綴った「連載#1〜7」をご覧ください。
【突然の上告を取り下げ】
それは、突然の知らせだった。2023年5月11日、今井死刑囚は上告を取り上げたのだ。
今井死刑囚は、これまでずっと無罪を主張してきたことからして、まさか上告を取り下げ、つまり事件を認めて死刑判決を受け入れるとは思ってもいなかった。
いったい何があったのか。どんな心境の変化なのか。そもそも事件は本当に今井死刑囚が起こしたものなのか。
一緒に面会を重ねていた友人であり、YouTube『日影のこえ』主幹の映像作家・我妻憲一郎に今井被告から届いた手紙には、「もう限界」とだけ記されていたという。
かえりみれば、今井死刑囚は去年末あたりから心を病んでいた。拘禁反応のような症状がみられた。例えば、以前は普通に受け応えをしていたところ、この時期はこちらが問いかけてもずっと推しだまっているなどである。同時期に我妻が面会した際には、意味不明の言動を繰り返すこともあったという。
ちなみに、そのころ、今井死刑囚に母親からの手紙を見せてもらったことがある。そこには、金銭面等の「支援を続けることが難しくなっている」ことなどが綴られていた。
上告取り下げを知り、まだ東京拘置所にいるであろう今井死刑囚に、すぐに詳しく教えてほしい旨を記した手紙を僕は送った。
2023年5月22日、A4大の茶封筒が速達で僕の自宅に届いた。差出人は今井死刑囚だったことは言うまでもない。
計8枚の便箋には、自身の「生い立ち」「犯行動機」「謝罪の弁」などが記されいたーー。
※本稿は、今井死刑囚から届いた手紙を文字に起こしたものです。なるべく原文ママでの掲載になりますが、一部、事実関係が損なわれない程度にこちらで修正しております
※今井死刑囚への原稿料及び取材活動費などに充てさせていただくため、これまで有料としてきましたが、今回は全文無料公開させていただきます
※今井死刑囚には原稿料を支払っています。サポートなどでご支援を下されば幸いです
【生い立ちについて】
生まれた頃の記憶はありませんが、神奈川県川崎市になる市立病院で生まれたと、親から聞いています。
記憶があるのは、だいたい保育園のころくらいだと思います。
保育園は、浦島保育園に通っていました。
私がよく覚えているのは、家業の電気店の車で父親の運転で登園したり、迎えにきてもらっていたりしたことです。
保育園にはOという先生がいて、父親と仲がよく、私もよくしてもらっていました。
父親が迎えにくると、車に乗って自宅に帰ることが楽しかったことを覚えています。
保育園のころの記憶については、よく父親の車に乗っている場面が蘇ってきます。
(その他は、あまりよく覚えていないのです)
その後、私は浦島小学校に通うようになります。
母親からの手紙で最近になり知ったのですが、よく母親のことを追いかけているような子だったそうです。(母のことを追いかけて、その後、交番に連れていかれたことは覚えていました)
小学校時代は、Y君という子と仲良くて、よく遊んでいました。
Y君は、とても頭が良くて、学年でいちばんの成績だったように記憶しています。
私の得意科目は算数でした。
いまとなっては、バカバカしい話話ですが、Y君の自宅で、みそ汁のなかに唐辛子を大量に入れて遊んだりしていました。
あと、当時、仲が良かったのにN君がいて、そのN君はY君とも仲が良く、そのことに対して嫉妬心があったことをよく覚えています。だから私は、N君より仲良くなろうと、Y君のことをお金で釣ったこともありました。
私はソフトボールクラブに入って、主にファーストやライトを守っていましたが、バッティングが全くといっていいほどダメで、試合で親に見られることが恥ずかしかった思い出があります。当時の監督さんは、それでもスタメンで使ってくれていたことも覚えています。
そのころは、MちゃんとAちゃんという女の子とも仲が良く、私の自宅で遊んだりしていました。
Mちゃんに好意があって、商品券をプレゼントして告白しましたが断られました。
修学旅行のときに、持っていってはいけない本を持っていったことによって、先生に見つかり怒られた記憶もあります。
夏休み期間中にラジオ体操に母親と一緒に行っていたことや、スイミングスクールに通っていたことも覚えています。スイミングスクールでは、いちばん上のクラスまでいくことができたのは、いい思い出です。
最近、母親から当時の写真を差し入れてもらいました。記憶がないもののそれは、ディズニーランドに行った家族写真でした。
小学校高学年になると、学校にも馴染んだ感がありました。そのころ中学受験も考えていた時期で、塾にも通ったりしていましたが、結局、受験はせずに市立中学校に進むことになります。
中学のころにはソフトボールはやめていて、かといって野球部に入ることもしませんでした。
代わりに1年生から吹奏楽部に入り、入部当初はチューバを担当していました。でも、顧問のI先生やY先輩の指導が厳しく、ついていくのが嫌になり、よくサボっていました。
そうして1年生のころはあまり練習に参加していなかったので、部は確か県大会まで進んだように記憶していますが、その大会に出場したかすらよく覚えていません。
中学のころはイジメられていました。
具体的には、「ヒーハー(注:お笑い芸人・ブラックマヨネーズの小杉に似ていることから)」とか「口臭えよ」とかです。暴力はありませんでしたが、すごく嫌でした。
得意科目は、やはり中学になっても数学でした。対して歴史や地理はあまり得意ではなりませんでした。
そんななか、中学時代のいちばんの思い出は、やはり合唱コンクールです。合唱コンクールでは3年間、指揮者をやっていたのですが、いずれも最優秀賞を受賞することができました。校内でも褒められて、気分が良くなっていました。
(1年生時の授賞を機に)私は、数万円もする指揮棒を親にねだりました。指揮者は、全体を統一することができるため、最優秀賞を受賞したこと、校内でも褒められたことなどが相まり、その高揚感から気を良くして高価な指揮棒を買ってまでして挑んでいたのです。
あと、吹奏楽部の後輩を連れて、北海道と沖縄にも行っています。お金は、母親のクレジットカードを使いました。カード本体がなくても、暗証番号を電話越しに伝えれば航空チケットやホテルの決済が簡単にできてしまっていたのです。でも、後日、カード会社から100万円近くの明細書が届きバレてしまいました。
一緒に行った後輩のお母さんからの問い合わせの電話が同時にあり、そのことでもバレました。
振り返れば、このころから金銭感覚がオカシクなっていたのかなと思います。
吹奏楽部の同級生たちと、Oちゃんという同級生の家で、よく全日本吹奏楽コンクールのDVDを鑑賞していました。大阪の江の川高等学校吹奏楽部が毎年のように全国大会で金賞を取るのを観て、憧れを抱いたのを覚えています。楽しい思い出のひとつです。
また、吹奏楽部での音源を録音したものをMDに落として、みんなに配っていました。私はそうした役割も担っていました。
部活は3年間、吹奏楽部に在籍していましたが、チューバからトロンボーンになり、最終的にはパーカッションになりました。3年生では、確か県大会までいって、そのときはトライアングルを担当していました。
大会が終わった後には、卒業コンサート的な者があったのですが、私はもう部活に行く気がなかったけど、同級生のK君から「来なよ」と自宅に電話があったことをよく覚えています。
(※結局、行ったか行かなかったのかは、よく覚えていません)
修学旅行は、確か長野県でのステイホームでした。そのとき、ちょうど競馬の日本ダービーの時期で、ウオッカが勝ったところをテレビで観ていたことをよく覚えています。
私は、外食を除き自分の家の料理以外は基本的に苦手だったので、ステイホーム先で出された料理を食べることにかなり抵抗感があったことを覚えています。(※それでも食べたように記憶していますが……)
中学生のころは、高校受験のため太陽学院(塾)に通っていましたが、サボってばかりだったので成績は振るいませんでした。
そのころ、仲良くなっていた同級生に対して、盗撮してもらいたいと言って、その子たちに盗撮させて、その対価としてお金を払うなどしていしました。
高校受験は公立の岸根高校などを受験しましたが(※受験のとき、父親が営んでいた電気店で嘘の採点をしたこともありました)、公立高校はいずれも不合格でしたので、結局、私立の横浜商科大学高等学校に進学することになりました。
高校は、スポーツ系の学校で、OBに元プロ野球選手の田澤純一投手がいました。オリンピックに出たことがある人もいるくらいスポーツばりばりの学校でした。
そんな感じの学校だったので、1年のころは馴染めず、学校に行かない日も少なくありませんでした。なので、成績は、学年で下から数えて5番目でした。
部活は一応入っておかなければと思ったので、ボランティア色の濃い文化系の部活に入っていました。そんなに活動をした記憶もないので、おそらくあまり参加していなかったのだと思います。
2年生になり、クラス替えにより教室の雰囲気が変わり、学校に行くことがやや楽しく鳴りました。
別のクラスの頭のいい男の子と仲良くなったのも大きかったと思います。
とにかく、1年生のころの成績が悪すぎたので、必死に勉強しました。例えば、言われてもないのに、家庭科のレポートを書いたりしていました。弓道部に所属していた同じクラスのK君と仲良くなり、一生懸命勉強していました。その結果、成績がいっきにに上がり、クラスで上から5番目くらいになりました。
ただ、体育だけはどうしても苦手でした。特に1500m走などは本当に苦痛でした。
2年生の後半から3年生の初めにかけては、S君たちのグループと仲良くなり、よくボーリングやカラオケに行くようになりました。カラオケでの私のオハコは、アニメ「マジンガーZ」の主題歌です。カラオケボックスに7〜8人で集まり、サッカーの南アフリカW杯のテレビ観戦もしていました。ちなみにボーリングは、関内の駅近くのボーリング場をよく利用していました。最高スコアは、249だったと記憶しています。
修学旅行先では、仲が良かったK君と一緒に行動していました。
3年生の文化祭では、実行委員をやらせてもらいました。この文化祭は、いい思い出のひとつです。
また、もう時期は忘れてしまいましたが、当時、仲が良かった子と救命講習に行っていました。
救急救命士を目指そうと思ったのは(その資格を取れる専門学校に行こうと思ったのは)、昔、私のおじいちゃんが救急搬送された際に、黄色のワッペンに記された「救急救命士」という文字が目に入り、格好良さを抱いたからです。それで「救急救命士」に憧れ、救命講習を経て専門学校の指定校推薦をもらうことになったのです。
指定校推薦をいただけたので、3年生のころは2年生のころに比べてそれほど勉強に熱が入らずS君たちのグループと遊んでばかりいました。
そして、指定校推薦で湘央生命科学技術専門学校に入学することになりました。
専門学校時代のことを書いてみます。
専門学校は、いくつかの学科があったのですが、救急救命学科に入学することにしました。救急救命学科は、救急救命士の国家試験の受験資格を取る学科です。
1年生のオリエンテーションにて、私は指揮者として全国大会で入賞経験があるとの嘘をついたりしていました。
また中学や高校の吹奏楽部を指導していて、お金をもらっているとも言っていました。
高校でも、仲間とカラオケやボーリングやショートゴルフに行ったりしていました。そのお金は私が全額出したりしていました。
ショートゴルフには、特に仲が良かったY君やN君と行っていました。学校の最寄り駅からタクシーで行くほどだったので、金銭感覚はかなり狂っていたと思います。
そして、何より、救急救命学科では心肺蘇生法を繰り返し行なっていたので(これは、実際にやってみないとわからない感覚なのですが……)、心肺蘇生法をすることにより気持ちが高揚したりしていました。
実際の実習では、心肺蘇生法だけではなくて、一連の動きのなかでやるのですが、何というか、実習を繰り返していると、気持ちが良くなる感覚が強くありました。
3年生のころは、特に実習がメインで、実際に病院に行って実習をしたりするので、そういった救急救命措置をしている自分について、ついには「かっこいい」と思うに至ったのです。言葉にするのはなかなか難しいのですが、あえてするなら「自分のことを見てほしい」といった気持ちが強くなっていったのです。これは、事件にも関わってくると思います。
事件のことを語るにあたって、専門学校のころの出来事は大きく影響していると思います。専門学校のころについては、このへんで終わりたいと思います。
そして、私は救急救命士には合格しましたが、消防にはひとつも受かることなく、求人情報誌「タウンワーク」でたまたま見つけた「Sアミーユ」へ入社することになりました。「Sアミーユ」へ入社する経緯や、その後の仕事ぶりについては、すでに書いたとおりなので割愛します。続きは、事件にスポットライトをあてて書きたいと思います。
【独占告白/(事件は全て)私がやったことで間違いありません】
これまで事件について「やっていない」と言っていて、裁判でもそのように主張してきましたが、実は私がやったことで間違いないのです。
私がしてしまったことについてはこれから書くとして、まずは、なぜ、いま、このタイミングで上告を取り下げに至ったのかについて書こうと思います。
いま、このタイミングで上告審の途中で取り下げたのは、もう私の気持ちが限界だったからです。
逮捕されて以降、「自分がやった」という記憶がありながら、第1審の弁護団が選任されてからは、まず「黙秘」から始まったので、私が自分の口で語ることができませんでした。連日、弁護人から「黙秘」をすすめられていたので、そっちに、要はラクな方にいってしまったのです。
そして、第1審時に精神鑑定をやりたいと感じた私は、公判前整理手続きの途中で健忘の主張をするようになり、その健忘が通用しないとわかると「やってない」と嘘をついたのです。
第2審も否認を続けていましたが、複雑な気持ちがありました。
それは、供述心理学鑑定によって、第1(Xさん)と第3(Zさん)の事件は私の体験に基づく供述ではない可能性が高いとの結果が出たことでした。
ひいては「これなら冤罪の主張で突き通せるのではないか」との弱い自分が出てきてしまいました。ずっと嘘の主張を続けていたので、もう第2審のときには慣れてしまっていました。あまり抵抗もなく……。
そして上告審中なのですが、去年12月ごろからずっと悩んでいて、ここにきて新たな供述心理学者も出てきたので、もうこれ以上は他人を巻き込むのは違うのではないか、「認めるならばここだ」「嘘なく生きたい」との思いがだんだん強くなってきて、ゴールデンウィーク明けくらいから深く悩むようになりました。
そして、私としては、自分がしたことだし、もうこれ以上、認否をし続けて、そのプロセスのなかで様々な専門家を巻き込むのは違う、嫌だ、「嘘はやめよう」との思いが固まり上告を取り下げることにしました。
取り下げたことについては、私の意思ですし、後悔はほぼしていません。
法廷で真実を語れなかったことについては、後悔をしていますし、黙秘は、当時は正しいと思っていましたが、いまとなっては正しいことだったのかどうか、自分でもわかりません。
(黙秘権については、あった方がいいのでしょうが、その答えは自分でもわかりません)
あと、この事実を外部の人たちに伝えるというのは、なかなか勇気が必要でしたし、伝えるまでには相当の葛藤があったことも事実です。
いま、こうして伝えようと思ったのは、もう上告の取り下げをしたことが、やはりいちばん大きいのです。
事件のことについては、第1審判決が正しいと私は思っています。
ただし、第2のYさん事件の動機については、作文っぽいので違うかなと思いますが……。
第1審判決によれば、Yさんの殺害を決意したのは4階の食堂でテレビを壊したことによってストレスが爆発したということになっていますが、実際は、当日勤務してきたときですので、事実とは違います。
なぜXさんをターゲットにしたのかは、自分でもよくわかりません。ですが、Yさんがいなくなることによって、全体の入居者数と業務量が減ることは事実なので、そういった気持ちからやったのかもしれません。
また、転落させたことは事実ですが、Yさんのときは亡くなるとは思っていませんでした。
それが本心です。
そしてXさんとZさんの動機は、心肺蘇生法を賞賛されたいとのことですが、当時、介護有料老人ホームで働いていた私は、当然、日頃から(消防ではないので)救急対応をすることが多くなかったために、その自分の持っている技術を人に見せつけたいとの思いから、お二人を転落させてしまいました。その気持ちが、あの施設で働いていくなかで強くなっていってしまいました。繰り返しますが、自分の持っている技術を周囲に見せたいという強い気持ちがあったのです。
また、当日の担当職員、つまり相勤者が後輩の日(第3の事件)や、違う緊急対応で一緒だった人(第2の事件)がいるときに転落させたということもあります。
いまは転落させてしまったことについて、ただただ申し訳なく思っています。
この刑を受けたいと思っています。
そして、これまで私が嘘をつき続けてしまったことについて、本当に申し訳なく思っています。
これからも、できるだけ活動はしていきたいと思っていますので、何とぞ、どうかよろしくお願いします。
以上
令和5年 5月20日(土)
東京拘置所(内)
今井 隼人(イマイ ハヤト)
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