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「生きづらさ」を因数分解したい
「書くことは自分の脳みそを外部に拡張すること」――そんな言葉をどこかで目にした気がします。
「生きづらさ」を因数分解したい
「生きづらさ」はどこからくるんだろう。なぜ生きづらさを感じるんだろう。
人の「生きづらさ」にぶつかったときにはそれを細かい要素にほぐして考えたくなります。固まった結び目をほどくときのように。
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手取りが少ない、職場の人間関係が辛い、仕事にやりがいがない、親に頼れない、パートナーにも頼れない、毎月毎月の暮らしだけで貯蓄がない、特別なスキルがある訳でもない……
知人の知人がそんな状況にあって助けたくても手をこまねいている、という話を聞きました。
これを「生きづらさ」と呼んで、どうすればいいのか、何ができるのか――そもそも当人はどうしたい・ありたいのか――を考えてしまいます。
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知人の知人のこの話に限らず「生きづらさ」という言葉を私はよく目にします。
思うにこの言葉は多義的です。精神的・内的な面から社会経済的・外的な面まで、様々な顔のある鬱屈した万華鏡のような言葉だ、と思ってしまいます。
多義的であるが故に「生きづらさ」は様々な課題を内包します。その中には課題と言い切るか迷うようなものまでグラデーションのようにまとめて包み込んでいます。
傍から見たときに境界がはっきりしない「生きづらさ」に他人がそのまま触れようとする、取り扱う、解きほぐそうとするのは難しそうです。
だからこそ、その「生きづらさ」に真正面から向き合いたいからこそ、タイトルにしたように私は「生きづらさ」を因数分解したい、と思うのです。
「生きづらさ」がそこにあると思ったら、心で寄り添いつつ、頭で一歩引いて何がその生きづらさを構成しているのか、そしてその一つ一つを解消する・和らげるにはどうすればいいのかを考えたいです。
これは経済学者アルフレッド・マーシャルの残した「Cool Head but Warm Heart(冷静な頭脳と温かい心)」の考え方に近いかもしれません。
あるいは「生きづらさ」を構成する要素一つ一つにも更に細分化できるものがあるでしょう。
自然数・整数の因数分解には終わりがありますが、「生きづらさ」の因数分解はミョウガやタマネギの皮むきのように、ある意味どこまででも続けようと思えば続けられることなのかもしれません。
(関係ない話ですが自分は数Ⅰ・Aで素因数分解が範囲のテストの赤点を取ったことがあります)
「○○しづらさ」は「○○したい」?
「○○しづらい」という時、そこには○○をしたい、○○を続けたい、という気持ちがどこかにあると思います。「生きづらさ」という言葉が使われるとき、そこには生きていたい、生き続けたい、という気持ちがあると考えると、「生きづらさ」には生き暮らしていく上での全ての困難・困窮が含まれうるのかもしれません。
そうだとすると、「生きづらさ」に向き合うことは「生きること」に向き合うことだ、ともいえそうです。
このnoteのきっかけ
・北海道の人、九州に行く人、埼玉の人(=私)の会話
・BUMP OF CHICKENの「才悩人応援歌」
・もぐって受けた政治過程論の先生がいつか話していた「Cool Head but Warm Heart」の引用
・最近よく見てしまうYouTubeチャンネル「数学を数楽に」