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まどろみの中で書く、手の赴くままに
今日は朝から体が重くて、スッキリ起きれなかったのだけれど、そんな日に限って、なかなかハードなことが重なっていたりする。
重い体を何とか起こして、スタート。
一日ノンストップで走り続け、ようやく終わって帰路につく。
そして今は、極上のリラックスタイム。
頭はもう働いてはくれない。
ボーッとしていて、思考の輪郭が溶け出している感覚がある。
エントロピーがあてどなく、増大しているイメージだ。
そんな、まどろみの中でタイプする文字の羅列は、朝になったらきっと目も当てられないほど、恥ずかしい内容になっているのだろう。
それでも無心に、手を動かしている。
一心に、文字を打ち続ける。
『書く瞑想』という本があるが、それを以前手に取ったとき、思考をバリバリに使って「書く」行為と、無の境地に近づこうとする「瞑想」が全く結びつかなかったけれど、
今こうしてただただ、文字を打っていると、書くという行為はモードによっては瞑想になりうるし、場合によっては行き場を失い、その場に停滞している言葉をたちを別次元に連れ出してくれる抜け道にもなるのかもしれないと、ふと思った。
ものすごいパラドックスだけれど。
そして今、脳の働きはほぼストップしているようにも思えるなかで、手だけがひとりでに動き、たしかに行く手を導いてくれるような感覚があるのは、ひとつの希望だ。
身体が動くって素晴らしい!
たとえ頭が働かなくなったとしても、手を動かすというアプローチで、言葉を発動させることができるのだから。
もちろん、その先に明確な目的地があるかどうかは、わからない。
けれども、こっちの方向に進めば大丈夫、間違いないだろうという根拠のない自信がある。
ついさっきまで、まどろみの中で溶けていくような感覚しかなく、かろうじて目が空いている程度だったのに、
突然閃きがやってきた。
それは、いつかある人から言われたことば。
あなたは、手の感覚がとても鋭い。
だから、手が導いてくれる感覚を大切にね。
と。
一字一句が、この言葉であったかは定かではないけれど、たしか、そういう意味のことを言ってくれて、ほんのりと心があたたかくなった記憶を。
手の感覚に素直になること
手の感覚に正直に生きること
力まずに、力を抜いて、サッと動かすと、わたしらしさがそこに、自然と立ち現れてくるように思う。
魔法の杖ではないけれど、たしかに私は昔、自分の手の感覚に素直で、手が動き出す方向に従っていた。
手の感覚が、今よりもずっと鋭敏だったのだ。
この手があれば、なんだってできる。
小さい頃に、そう思ったこともある。
そんな感覚をずっと、記憶の彼方に追いやって、鍵をかけていたことに、いまふと気づいた。
たいしてうまく使えてもいないくせに、頭を使っていると錯覚しているだけなのだと思う。
これからは、手の感覚をもっと信じていこうと思う。
手の導くままに。手の赴くままに。