【閲覧注意】タイの無縁仏の墓の洗骨に参加した話【人骨画像多数】
※当記事には人骨の画像がいくつか出てきます。残虐な死体画像というわけではありませんが、閲覧にご注意ください。
これは数年前の話。タイのレスキュー団体が管理する無縁仏の墓の整理があったので、参加してきた。儀式としては「洗骨」になるようで、白骨化した仏様を運び出し、丁寧に汚れを落としていく。再埋葬には参加していないので、まさに骨を洗うところまで見てきた。
このレスキュー慈善団体は「プラチャーヌグーン」という、バンコクの西方にあるラーチャブリ―県で活動する中華系のグループだ。タイのレスキュー慈善団体は多くが墓地も所有している。そこに無縁仏や、中華系タイ人が埋葬され、数年に一度、あるいは墓がいっぱいになると洗骨が行われる。
タイのレスキュー団体の活動については下記を参照に。
タイのレスキューの始まりは、ボクも所属している報徳堂の活動が最初で、基本的にはどの団体も報徳堂の活動内容を原型としている。そして、この報徳堂は、貧困者層などの行き倒れの死体を回収し、埋葬するという活動を起源としている。バンコクだと、BTSスラサック駅の近くに報徳堂の無縁仏の墓地があった。
ちなみに、基本的には一般的なタイ人(民族的にも、文化的な分類でも、国籍においても。広義のタイ人の一般的な人)は墓を持たない。多くが、葬儀が終わって火葬が済むと、骨は寺院にそのまま預けられるか、どこかに散骨される。
無縁仏の場合は勝手に火葬したり散骨するわけにもいかないこと、また団体が中華系だったこともあって、墓に埋葬することになったと見られる。要するに、慈善団体に管理される無縁仏は基本的に中国文化に沿って始まったということになるのだろう。
これは報徳堂からの参加者の打ち合わせだ。マイクを持っているのは長年、レスキュー本体を率いてきた隊長である。儀式が始まったらノンストップで一気に作業が行われるので、最初に注意事項などが伝えられる。後述するが、洗骨は年々減少傾向にあるらしい。そのため、初参加の隊員も少なくない。
洗骨は世界中にあるようで、日本でも沖縄などにその文化があった。ただ、衛生面や埋葬にかかる法令が整備されたことで、近代文化にはそぐわなくなっているところも多く、日本なら沖縄本土ではすでにこの文化は消滅し、離島などで一部行われているそうだ。
洗骨の意味は、一度埋葬しただけでは死肉によって魂が悪霊化するなどの様々な理由や考え方があり、特に土葬や風葬があった地域では骨を洗って、再度葬儀をすることで亡くなった人が成仏すると信じられていたようだ。
タイのこの洗骨は、正直、どういう意味なのかはよくわからない。そのあたりを誰も把握していないからだ。タイの無縁仏の洗骨は、洗ったあとに頭蓋骨、大腿骨と部位ごとに分けてしまうので、単に墓の引っ越しの意味しかないのかもしれない。
この洗骨には数百人、あるいは千人超の人たちが参加した。報徳堂だけでなく、ほかの団体もたくさん来ていた。というのは、プラチャーヌグーンのように地方の団体だとそもそもマンパワーが足りなさすぎて、自前ではできないイベントもある。
今回の掘り起こしも数百体分あったので、数日に分けて行うとはいえ、遺体の何倍もの延べ人数で臨まないと終わりはしない。そのため、複数の慈善団体に協力要請が出て、たくさんのボランティアたちが集結した次第だ。
タイの慈善団体のイベントは必ず食事が用意される。参加者が自由に飲食できるようになっているので、手ぶらで参加できる。このため、参加者の中には遊びで来ているような人も少なくない。
下記の画像なんかは、自前で食事を用意していて、まるでキャンプのようなことをしている。もしかしたら遠方からの参加で、前日入りしていたのかもしれない。バンコクに拠点がある我々でさえ、朝4時くらいに出発してきているのだから。
報徳堂の無縁仏の墓でも定期的に洗骨が行われる。十数年前、日本の刺青雑誌「バースト」において、死体写真家の釣崎清隆先生が取材した洗骨の様子が掲載されていた。これを見ていたので、ボクは洗骨に参加したくて仕方がなかったので、このときは夢が叶った日でもある。不謹慎だけども。
この報徳堂の洗骨は欧米なのかどこかの国のメディアで、タイ人は死体を掘り起こして肉を食べるというようなデマが書かれてしまったことがある。これには報徳堂も激怒している。
洗骨は適当に行うのではなく、ちゃんと慰霊祭のようなものも最初に行われる。僧侶を呼び、長いこと読経が行われた。
ちなみに、無縁仏の洗骨の数や回数は年々減少傾向にある。タイで無縁仏の数が大幅に減ったからだ。ボクの娘が生まれたのは2006年で、その段階ではまだ日本でいう戸籍などがオンライン化されていなかった。そのため、出生届はわざわざ妻の戸籍のある地方農村の郡役場に出向かなければならなかったほどだ。
そうなると、特に地方出身者などが身元不明死体になった場合、簡単には出自を追えなくなる。ボクが初めて報徳堂の活動を取材した2004年も、チュラロンコーン大学の病院か医学部かわからないが、そこの遺体安置所の冷蔵庫は身元不明死体で満杯だったほど。
貧困層の高齢者などは、そもそも戸籍がないという人も十数年前まではかなりいたそうだ。タイ最大のスラムとされるクロントーイでも無国籍者が多数いて、支援団体の業務の中に戸籍取得の支援もある。
今は無国籍の問題もだんだんと減ってきているし、戸籍もオンライン化されたので、指紋さえあれば警察署の端末ですぐに照会できる。実際に家族が全員亡くなっている場合もあるだろうが、少なくとも名前もわからないような死体というのはほとんど出なくなったという。
そのため、以前は墓がいっぱいになったら引っ越しのために洗骨していたのが、今は数年ごとに定期的に行われる儀式になりつつあるのだとか。
プラチャーヌグーンの無縁墓地はこんな感じだった。完全土葬かと思ったが、一応コンクリートの簡易的な墓になっている。
中華系タイ人の多くも今は墓を持たないが、家系の伝統として亡くなったら墓に入る世帯もまだある。そういった人の墓はちゃんとしていて、大きく立派だ。ちなみに、イスラム系の住民も土葬だが墓に入る風習があるので、イスラム系住民が多い地域には墓地や霊園がある。
墓の中には蓋がずれているものもある。日本の墓のようにきれいに管理されていても夜中にひとりで歩くことはなかなか恐怖心が煽られるものだが、こんな風に蓋が開いてたらムチャクチャ怖すぎる。肝試しには最強すぎるだろう。
「亜細亜熱帯怪談」の著者目線言えば、ここから骨などが盗まれている可能性も否定できない。プラチャーヌグーンの墓は男性、女性、子どもに分けられていた。そこから呪術などに必要な骨を盗掘されているかもしれない。実際、タイ東部の無縁仏の墓から死体が盗まれた事件が何回か発生しているのだ。
プラチャーヌグーンの偉い人の挨拶で儀式が締めくくられる。もしかしたら、この挨拶で始まったのかも。ここは全然憶えていない。とりあえず、やっぱり代表は中華系の人なんだなと思ったことはぼんやりと憶えている。
報徳堂もそうだが、レスキュー団体はほとんどが中華系住民が興したものだ。そういった活動ができるくらいなので、多少経済的に余裕があったと考えられる。そのため、報徳堂の幹部や、創設者の子孫たちは富裕層ばかりだ。もしかしたらオーナーが変わっているかもしれないが、伊勢丹が入居していたセントラル・ワールドはかつてワールド・トレードセンターと呼ばれていた。今も土地自体はタイ王室のものなのだが、そこを借りてワールド・トレードセンターを造ったのは報徳堂幹部のひとりだそうだ。
配られたヤントラが描かれた布を頭に巻く。魔除けなのか日除けなのかはわからない。みんなしていたので、ボクも真似しただけ。とにかく暑くて、始まる段階ですでに地獄の予感があった。
さて、慰霊祭が終わると、ただちに作業が始まる。まずは、最初の墓が開けられた。どのように開けるのかと思えば、ただバールでこじ開けるだけだった。
かなりどうでもいいミニ情報だが、レスキュー関係者は結構無線マニアが多い。こんな儀式に無線なんてほとんど不要なのに、白い制服の人を見てもらうとわかるが、無線を腰にしている。
ちなみに、タイでは赤の無線機と黒の無線機がある。黒は基本的には免許がいる。赤は無免許でも使えるので、商業施設のガードマンなどがよく使っている。とはいえ、赤無線でもちゃんと無線機を自治体などに登記していないと違法無線機とされ、場合によっては違法所持で有罪判決を受けるらしい。タイは麻薬事件などが多いので、こういう道具は武装と判断されるケースがあるらしく。
さて、墓の中はどうなっているのかというと、こんな感じだった。土葬と言っても土をかけるわけではなく、このコンクリートの墓の中に寝かせるだけなのだろうか。だとしたら、先の開いている蓋とか、やっぱり夜中に見たらムチャクチャ怖いでしょう。
まず第一の骨が取り出され、これを合図に一緒にボランティアたちが墓を開け、一気に骨を回収していく。
肉が残っているような遺体もあるのかと思えば、そんなことはなかった。最後の埋葬からかなり年月が経っているようで、すべて白骨化していた。
とはいえ、墓を開けると立ち込める臭いは決していいものではない。腐敗した土の臭いがした。
墓の中には虫などもいて、蓋を開けるとわらわらと逃げ出す。養分があるからなのか、巨大なムカデとかもたくさん這っていた。
頭蓋骨を拾い上げる報徳堂の職員だ。後述するが、頭蓋骨を持ち上げているシーンはちょっと憶えておいてほしい。
このようにボランティアたちの手によって、次々と墓が開けられていく。この日はよく晴れていて、午前中とはいえ、とにかく暑かった。
骨の拾い方には性格が出るようだ。特に拾う方法はないので、各々が自分のやり方で拾い上げていく。かごに入れる人もいれば、この女性のように白い布に広げる人もいた。
というのは、一度布に人の形に骨を広げる。だから、かごに入れないで、直接布に広げた方が早いと判断したグループはそうしていた。これは拾い漏れがないようにするためでもある。
骨は白骨化しているとはいえ、画像のように多くが茶色くなっている。そして、風化して骨が崩れているので、細かい骨を拾い忘れやすい。
白骨とはいえ、人間は人間だ。レスキューの関係者は遺体の扱いは丁寧である。通常の活動の中で回収する死体も布に包むのだが、我々はその遺体を絶対に落とさない。それが亡くなった人への礼儀だとレスキュー隊員は考えているからだ。
だから、洗骨の際にはまず頭蓋骨を一番最初に墓から取り上げ、一番最初に布に置く。そして、死者の尊厳を守るため、骨はどんなに小さいものでもひとつも残さずに拾うのだ。
こうして数百人の手でどんどんと墓が開けられていく。蓋が邪魔になるので、だんだんスペースがなくなると、仕方がなくいったんかごなどに集め、別の場所で布に広げていく。
ここまで来ると、暑さなどで疲労困憊になる。すると不思議なもので、変なデマが流れて、みんなそれを信じてしまう。どういうわけか、墓の一部で一切腐っていない、まっさらな死体が出たと騒ぎになった。たぶん、なにかの発言が、人間たちの輪の中でどんどん尾ひれがついたのだろう。ボクも急いで人波をかき分けて見に行ったが、普通に白骨体だったし、中心の隊員たちはそんな情報が流れていることも知らずに、普通に作業をしていた。
尊厳がなんとかと言いつつも、こうやってちゃっかり記念写真を撮っちゃう人も少なくない。
さて、広げて確認が取れた骨は布で包み、別の場所に移動する。今回はどこかからトゥクトゥクが用意され、それでピストン輸送された。
輸送されたと言っても、数百メートル先にあるテントだ。ここではまさに洗骨が行われていた。
歯ブラシなどを使って、丁寧に泥を落としていく。骨を洗う。まさに「洗骨」である。
今回の洗骨は最後の埋葬からかなり時間が経っているが、先の釣崎先生が撮影したときなど、以前はもっと早くに墓地が満杯になったため、中には肉が残ったままの状態の遺体も出てきたようだ。報徳堂ではそれをカッターなどで削って肉と骨を分けていた。それが、死肉を食べていると噂される羽目になったわけだ。
と言いつつ、ボクもその様子を期待していたが、普通に骨を洗うだけの儀式だった。ちなみに、別の場所でなぜか釘で貫かれた足首とサンダルが発掘され、それは画像に収めた。結局なんでそんなことになっているのかは今もはっきりとはわからない。
ここからが、日本やほかの洗骨とは違うところだ(たぶん)。タイの無縁仏の墓地から出てきた骨は、洗い終わると部位ごとに分別されていく。このあとの儀式をボクは見ていないので聞いた話になるが、部位ごとに分けて慰霊塔のような、もっと大きくて広い共同墓地に運ばれ、そこに安置されるのだとか。
一応、頭は上に、そしてほかの部位はその位置に近い場所に並べられていく。この時点では暑さでぼんやりとしているが、改めて考えてみるとなかなかすごい光景だと思う。
みんな笑いながら作業をしていたりするが、レスキュー隊員は多くが敬虔な仏教徒だ。徳を積むためにレスキューボランティアをしているので、信心深い。中にはこんなにたくさんプラクルアン(タイのお守り)をしている人もいて、多少、死体に触れることに畏怖の念があるのかと思う。
ちなみに、このあとものすごい雨が降ってきて、バンコクまでの帰りの道のりは、行きの倍以上時間がかかってしまい、正直、そっちがボクには辛かった。